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2017年10月29日 (日)

悟達と諦観

  小澤征爾氏(以下、敬称は略させて頂く)の最新CDがベートーヴェンの交響曲一番とピアノ協奏曲一番という組み合わせに何か小澤の意図の如きものを感じた。この老いの晩年を生きている西洋音楽と格闘し一生を終えようとしている指揮者の思惑を推量したくなったのだ。それは西洋古典音楽を世界的な普遍性として作品化した稀有の音楽家の若き頃の作品を新たに録音するということは老いの諦観ではなく青春のベートーヴェンの息吹を自らの内に湧き起こし活力を得ようとする意図はないだろうかと思うのだ。ソリストはマルタ・アルゲリッチである。昨年だったか、彼女をソリストに迎えてベートーヴェンの他の作品に比べあまり演奏されることの少ない「合唱幻想曲」という作品を演奏したテレビ番組を録画でみたことを思い出す。CD録音で聴くのと比べ映像は何かまた別の感興をもたらした。そこでも小澤の意図の如きものを看取した。このピアノ独奏の長い、第九交響曲の原型の如き作品を小澤がピアニストとの共演に選んだことも今回の録音の契機となっているように思われた。

  そこで未聴のCDを探し、オットー・クレンペラーとダニエル・バレンボイムの録音を購入した。これは若きピアニストが老巨匠と共演した、当時は評判になったがアカショウビンも若く、バレンボイムを聴くならバックハウスや他の名ピアニストの録音を優先して聴くのに夢中でバレンボイムは今日まで未聴になっていたのだった。ところが聴くと実に新鮮。青春の息吹ともいえるリリシズムと巨匠の雄大なサポートを得て若きピアニストが互角に渡り合っているという風情だ。これも小澤の意図と共振しアカショウビンを啓発、刺激した。その恩恵を小澤に感謝したく一文を書かせて頂くのだ。クレンペラーの録音は最初に聴いたのが高校生のころだ。モーツァルトの主要交響曲を演奏したレコード二枚組の録音に接したのは幸いだった。それ以降、クレンペラーの録音は何枚も聴いた。特に巨匠晩年のモーツァルトやバッハの録音は風格というより崇高さを湛えたものだった。それは一生繰り返し聴くに耐える演奏といってよい。巨匠が晩年に到達した境地ともいえよう。ナチスのユダヤ人迫害を逃れ米国に渡ったクレンペラーは殆どどさ周りの芸人のように各地を転々とする。先日聴いた1937年のロスアンゼルスのオーケストラとのベートーヴェンの第五交響曲は晩年の録音とは別人のような激しい演奏に聴衆は何と途中で大きな拍手で演奏を讃えていたのである。聴けば巨匠の一生を 俯瞰する思いがする。若き頃の演奏と録音を通し独りの指揮者として一生を終えた人の人生は興味深い。それはかつて評伝も読んだが文字で辿るより、やはりその演奏がもっとも多くを語っているように思うのだ。それは同じユダヤ人指揮者として米国で指揮し続けたブルーノ・ワルターにも言える。1937年とは辺見 庸の近作によれば日本とドイツが世界大戦に駆り立てアウシュビッツや南京大虐殺の蛮行に及んだ時だ。辺見が告発する中国戦線での日本軍兵士が行った凄惨な所業は今の日本が記憶の彼方から現在と照らし合わせ学ばなければならぬ隠蔽してはならぬ歴史である。

  先日、たまたま図書館でハンナ・アーレントの本を借りてきた。アカショウビンはハイデッガーの読者だがハンナの主著は殆ど読んでいない。しかしハイデッガーを読む中でハンナとハイデッガーが教え子と教師の間で恋人関係にあったことも知った。近年では二人の恋文も刊行されている。ユダヤ人のハンナがクレンペラーやワルターと同じ亡命した米国で名を挙げたことも何か象徴的だがハンナがこの世界的哲学者の教え子だったことも米国の論壇で大きな関心を惹いたことは想像に難くない。しかし師に学んだ学殖は故国を追われた時代を全体主義として師とは別のフィールドで新たな展開を見せたことは師と同じ世界的レベルで毀誉褒貶を受けながら世界中に多くの読者を得た。先般は映画にもなりわが国でも多くの観客を得た。アカショウビンもその感想は書いた。借りてきて読んでいるのは『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年 大月書店 佐藤和夫編)という表題で1951年に主著の『全体主義の起源』を刊行して論壇に登場したあとマルクス研究に没頭した1953年の手稿からの翻訳だ。それを読めば師のハイデッガーが戦後に刊行した『貧しさについて』というマルクス観と照らし合わせて弟子が独自に大きく展開させようとした意気込みが伝わる面白さだ。アーレント研究会という存在も初めて知った。内容は第一草稿と第二草稿で構成されている。翻訳は佐藤氏を含めて五人が丁寧に訳しているのが読み取られる。これは新たなマルクス観として熟読されるべき論文と確信する。そこには公私ともにハイデッガー哲学に習熟する弟子が大いなる意志で取り組んだ跡が散りばめられている。ヨーロッパのみならず我が国を含めて世界規模の思想的影響を与えたマルクスの思想はかつて小林秀雄が〝悟達〟という言葉で表現している。それは小林流のレトリックだが多くのマルクス主義者の批判の的ともなった。ハンナの思索もその世界思潮の中での一つとして新たな光芒を放つ。マルクスの評価についてはアカショウビンも若い頃から吉本隆明の著作を通じて関心を持続している。本作を皮切りにハンナの著作にもあたっていきたい。

  その中でクレンペラーの録音は日頃のアルバイト労働に疲弊し萎える日常に新たな活力を齎す。癌という病と同居するアカショウビンは時に諦観という境地にもたゆたう。小澤の録音と近年の心境は諦観とは異なる若さを取り戻す気迫が満ちていることだろう。アカショウビンも残り少ない余生は経済苦のなかで食いつなぎ、かつ思索にも時間を作らねばならない。ハンナの著作も小林の〝悟達〟とは異なる境域でマルクスと〝対決〟する気迫が行間に読み取られる。その渦中でクレンペラーの録音に共振しながらその感想も折々書いていきたい。

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