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2017年9月26日 (火)

水俣病は終わっていません

  25日の東京新聞夕刊に坂本しのぶさんの写真が。その渾身のコメントが表題のものだ。胎児性水俣病でアカショウビンは若いころに写真集でその姿を拝見し絶句した。以来、水俣への関心を持続している。還暦を迎えられたのが幸か不幸かはご本人の気持ちに寄り添わなければ軽率には言えない。禍福は糾える縄の如しで苦楽は糾える紐の如しだが、福も楽もあったと思いたい。しかし健常者とは異なる次元の楽かもしれぬ。仏者なら苦楽共に思い合わせて救いとして祈るだろう。日蓮なら南無妙法蓮華経、親鸞、法然は南無阿弥陀仏、道元なら只管打座だ。様々な姿で現世は苦楽に満ちている。その苦衷は本人が経験し体験し克服するしかない。しかし、それに同苦できるかどうかは人それぞれ。しのぶさんの表情には、その一端が写されている。此の世に生を受けるのは必然と偶然が介在する。人間はそれを受け入れるしかない生き物だ。その苦楽は苦楽として受け入れ娑婆世界を生きるしかない。それを否定し身を断つこともあるだろう。しかし、しのぶさんが発する声は洋の東西を問わず声として通底すると思いたい。仏教で説く人の業とはそのようなものであろう。

  ジュネーブの会議でしのぶさんの声と姿に接した人々はそれを痛感した筈だ。その声を人間という存在はどのように受け入れただろうか。国連環境計画の高官が述べたとされる「彼女らはもはや一人ではない」の言や好し。しかし、それは各人が自らの精神に叩き込まなければならぬ困難さを伴う。その困難さをどれほどの人が我が身に課することができるだろうか。それは正しく国連という機構組織を介して人間という生き物に課される難問である。条約に批准していないボスニア・ヘルツェゴビナの政府職員は「勇気を持って世界に伝えた姿に涙が出た」、と言う。その言や好し。身をよじりながら声を絞り出す姿を注視し、熟視し、熟思しなければならぬ困難を伴うことに心したい。

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2017年9月 7日 (木)

スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為

  6日の東京新聞朝刊の〝本音のコラム〟は、痛烈でアカショウビンにとって新たな事実を呼び戻して啓発された。ここで引用された桑田真澄氏が語った事である。

  曰く、「体罰に愛を感じたことは一度もありません」。「絶対に仕返しをされないという上下関係の構図で起きるのが体罰。スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です」。

  ここで強調されるべきは、恥ずべき卑怯な行為、である。道徳や人の生きるべき生き方で最も肝要な事とアカショウビンは解する。斎藤美奈子氏は、NHKドラマや先日の日野皓正氏の報道など引用し書いておられる。それによって、体罰容認論が復活しつつあるらしい。斎藤氏は「軍隊式の指導がまかり通っていた四十年前に逆戻りしたいの?」と問うておられる。それは揶揄とも読めるが、ここは、「したいのか!」、と怒りの声を上げなければならないところだ。もちろん斎藤氏にも、その意気込みはとうぜんある筈である。それほど、この桑田氏の発言と体罰容認論は四十年前どころか、戦前・戦中・戦後の軍国主義の歴史と一連の日本の現代史を振り返り論じなければならない日本人の問題である。

斎藤氏は「音楽や他の分野も同じだろう。時と場合で許される体罰などあるわけがない。時と場合で許される虐待やDVがないのと同じだ」の言や好し。

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