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2017年7月 5日 (水)

時の流れに身をまかせつつ流されないように抵抗する

 奇妙なタイトルで恐縮。しかし私たちの日常というものはそういう言い方もできることはおわかり頂けると思う。河瀨監督の「光」を観た翌週はアンジェイ・ワイダ監督の遺作「残像」を観てきた。それは暫し何人かの読者や友人たちには呆れられている常套句を使えば冥土の土産である。しかし死に近づいているという理解のもとに病を抱えている身には実感であり自覚である。それはタイトルのような表現がもっともアカショウビンの現在を伝える言葉となって記述されるわけなのだ。

 「残像」はワイダの生涯のテーマというものがあるとするなら最後のこの作品の中にもそれは見事に執拗に表現されている。執拗というのは批判しているのではない。それは執念と言ってもよい。むしろ、その言葉のほうが的を射ているだろう。その意味で描かれた作品は万人向けではない。しかし作品と正面した多くの人に何かを伝える内容を湛えている。それはアカショウビンが言葉で伝えられるものではない豊饒と言ってもよいものだ。それはアカショウビンにとってそうだがワイダ作品を観続けた者にとっては暗黙の了解を得る何かだ。

 まわりくどい言い方になって恐縮だが、それは「光」にも相通じる。敢えて両作品に共通するものは何かと言えば人が、見る、観る、視る、あるいは眺める、凝視する、瞬視するという行為は何か、という問いに集約される。河瀨監督もワイダも映画監督、映像作家として見る、視る、凝視、瞬視する人として規定される。それは或る職業人として特殊な立場で日常と非日常を生きているということである。その作品に正面するときその作品の何かが観る者たちを挑発する。それが映画を観るという体験である。

 「残像」が公開されているホールの次回作は「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」である。これまたアカショウビにとって必見の作品だ。彼女の詩は「ソフィーの選択」(1982年 アラン・J・パクラ監督)で巧みに引用されていたからだ。以来、この詩人はアカショウビンの関心の内にある。

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