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2017年7月19日 (水)

もう三か月

前回の治療からもう三か月が過ぎた。膀胱がんの手術からも間もなく一年になる。何とも月日のたつのは詩人なら百代の過客というところだが。イチモツからカテーテルを挿入される痛みと不快感は言語を絶するけれども、たまに病院に来るのは娑婆の一面が垣間見れて面白くもある。きょうは受付で待っている間中年男の父親との会話が面白く不愉快だった。それはよくあることとも言える。つまり父親に対する息子の口のきき方がエラそうなのである。いまどきの言い方で言えば〝上から目線〟なのだ。少し痴呆気味なのが傍で見聞きしているとわかる父親に対する配慮のなさは親の躾の失敗とも言えるが壊れた親子関係と言ってもよい無残さを感じた。何の病か知らぬがもっと優しい応対の仕方というものがあるだろう。他人事とはいえ腹のたつ光景だった。

それはともかく、これから抗がん剤注入の前に採尿と超音波検査。ここでひと悶着あった。受付で採尿を先に済ませと言われ超音波検査室に入ったらそれでは検査ができないというのだ。尿がないと画像が明確でないらしい。病院なのだから受付女性も検査手順には正確でなければならない。おかげでペットボトルでお茶を飲み40分後の検査となった。急ぐこともないけれども無駄な時を過ごした。一事が万事とは言わないが昨今の政治状況といえアカショウビンの日常の中で何か箍が外れているのではないかと感じることが多くなった。

まぁ、それもこれから始まる嫌な治療へ気を紛らわすための方策の如きものでもあるわけだが。

話は違うが、ここのところ少しずつ読んでいる九鬼周造の『時間論』で音楽や詩歌のことを「時間からの解脱」とみなすのが面白い。同様に美術は空間からの解脱だ。この賢察と思える一言に九鬼という人物の器量、力量を痛感する。

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2017年7月16日 (日)

素晴らしい7番

 レンタルDVDを中断して、たまたまテレビに切り替えたらベートーヴェンの第七交響曲を知らないオーケストラが演奏している。指揮者も知らない。しかし何と生き生きした演奏だ。正に血の通った演奏とはこのことだ。団員は女性も多い。日本人と思しきヴァイオリン奏者もいる。ベートーヴェンという古典が現代に甦り呼吸しているという演奏だ。こういう偶然は正に冥土の土産だ。

 引っ越してオーディオもセットし直し、一年間段ボールに眠っていたCDやレコードも息を吹き返し少しずつ聴いている。音楽を聴く悦びはアカショウビンの娑婆の道楽なのである。病を抱えている今こそ優れたCDや演奏は滋養となり心身に沁みてくる。演奏が終わり指揮者の名が出た。エサ・ペッカ・サロネン。名前は知っていた。それにしても見事で素晴らしい指揮者だ。アンコールはシベリウスの「ペレアスとメリザンド」から「メリザンドの死」。これまた選曲にセンスの良さを知らしめる。タクトをもつのと両手だけで使い分ける指揮ぶりも好い。オーケストラの統率力、団員たちの一人一人に指揮者の見識が伝わっているのを映像からも伺い知られる。これは一度生演奏に接したいものだ。久しぶりのベートーヴェンに日々のマンネリに力が注がれた思いだ。オーケストラはフィルハーモニーだ。かつてのメンバーとは様変わりしているが古参の団員もいる。何とその前にはベートーヴェンの第3協奏曲をチョ・ソンジンが演奏したらしい。これを聴き逃したのはは惜しかった。ショパン弾きのベートーヴェンは聴きたかった。しかしショパンはおまけで聴けた。以前に書いたけれどもサントリーホールでの来日コンサートは驚愕した。ショパンの「前奏曲」の面白さを改めて知らしめてくれた名演だった。

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2017年7月14日 (金)

深夜のシャンソン

 NHKラジオの深夜便はこの数年不規則な生活のなかでよく聴いていた。昨年jの引っ越しで一年間は入院、アルバイトの毎日の中で殆ど聴くことがなかった。今夜は、といっても日付は変わっているが、連休をとり以前の不規則に戻り、たまたま深夜の音楽で目覚めた。そこで奏でられていたのが日本のシャンソンだった。かつて少年時代に聴いたことがある作品を改めて聴いたが初めての作品もあった。越路吹雪が昭和44年に録音した「人生は過ぎゆく」がそれだ。この殆ど語りの曲に越路の恐らく晩年の歌唱の到達点が記録されていると言ってもよい。それは女の愛の睦言という内容だ。それは多くの恋人たちの間で囁かれる睦言だ。しかし、そこに死を覚悟した一人の歌い手のエッセンスとでもいうものが凝集されている。それを聴けたことは果たして偶然だろうか知らぬ。しかし音楽を愛する者の偶然は幸いである。フランスのシャンソンが日本でこのように解釈され根を張ったことに遭遇したとアカショウビンは解する。番組の最後に若い頃に聴いたシャンソンで愛聴したダミアの「かもめ」を石井好子が録音した日本語で聴いた。それもまた越路吹雪と同じく日本のシャンソン受容の到達点と言うべき境地だ。この録音を探すことは現在のネット社会で容易なことだろう。それを聴く機会は多くの若者たちのなかでどれほどあるだろうか。そしてアカショウビンと同じ感慨をもつ人は極く少数だろう。しかし、それでも歌い手の魂とでも言うしかない境地は格別だ。これから何度そのような体験ができるかどうか。しかし、これもまた冥土の土産というしかない。

 番組は沖縄の歌手の歌声に変わっている。この声にも歌い手の魂が込められている。我が奄美の民謡では里 国隆の声にそれを聴いた。我が同胞たちは里を忘れてはなるまい。その声は現在の政治情況のなかで新たな活力を有する筈だ。夏の暑さに消耗する毎日に里を聴くことは現在を生きるアカショウビンにとって天啓の如きものだ。しかし越路や石井の声の中にもその魂の同じおらび(叫び)を聴いたことを記しておく。

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2017年7月 5日 (水)

時の流れに身をまかせつつ流されないように抵抗する

 奇妙なタイトルで恐縮。しかし私たちの日常というものはそういう言い方もできることはおわかり頂けると思う。河瀨監督の「光」を観た翌週はアンジェイ・ワイダ監督の遺作「残像」を観てきた。それは暫し何人かの読者や友人たちには呆れられている常套句を使えば冥土の土産である。しかし死に近づいているという理解のもとに病を抱えている身には実感であり自覚である。それはタイトルのような表現がもっともアカショウビンの現在を伝える言葉となって記述されるわけなのだ。

 「残像」はワイダの生涯のテーマというものがあるとするなら最後のこの作品の中にもそれは見事に執拗に表現されている。執拗というのは批判しているのではない。それは執念と言ってもよい。むしろ、その言葉のほうが的を射ているだろう。その意味で描かれた作品は万人向けではない。しかし作品と正面した多くの人に何かを伝える内容を湛えている。それはアカショウビンが言葉で伝えられるものではない豊饒と言ってもよいものだ。それはアカショウビンにとってそうだがワイダ作品を観続けた者にとっては暗黙の了解を得る何かだ。

 まわりくどい言い方になって恐縮だが、それは「光」にも相通じる。敢えて両作品に共通するものは何かと言えば人が、見る、観る、視る、あるいは眺める、凝視する、瞬視するという行為は何か、という問いに集約される。河瀨監督もワイダも映画監督、映像作家として見る、視る、凝視、瞬視する人として規定される。それは或る職業人として特殊な立場で日常と非日常を生きているということである。その作品に正面するときその作品の何かが観る者たちを挑発する。それが映画を観るという体験である。

 「残像」が公開されているホールの次回作は「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」である。これまたアカショウビにとって必見の作品だ。彼女の詩は「ソフィーの選択」(1982年 アラン・J・パクラ監督)で巧みに引用されていたからだ。以来、この詩人はアカショウビンの関心の内にある。

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