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2017年6月23日 (金)

河瀨監督の「光」を観る

昨日、アルバイトを休み新宿の劇場で河瀨直美監督がカンヌに出品した「光」を観てきた。朝の回で何と観客はアカショウビンの他三人。おかげでゆっくり観られた。食事もしながら。しかし何とアイスコーヒーとホットドッグで800円には魂消たが。

  前作の「あん」に続く作品として期待もした。カンヌでは観客総立ちで10分間拍手が止まなかったという。物語は一本の映画を視覚障害者のための音声解説に取り組むスタッフの遣り取りである。健常者には思いもつかない現実を彼らは生きている。それは想像力を最大限に発揮し生の活路をはたらかすという日常を彼らは生きているということだ。全盲といくらか光を感知する主人公の生きざまを河瀨監督は繊細な感受性で構成する。それは時に冗長でもあるが、その人々が感じ生きる時の推移を辿るには不可欠の時とも言える。それは観る者にも想像力と感受性を要求する。主演は「あん」に続き永瀬正敏。熱演である。脇役陣も好演。もう少しこの作品のテーマとカットなどの細部を廻って考えてみよう。

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2017年6月21日 (水)

加藤一二三九段、引退

  加藤九段引退の報に感慨新た。学生の頃に将棋にのめりこみアカショウビンの大学は新宿の将棋道場の如きものだった。その頃の新宿は大道詰将棋や将棋道場の隅では賭け将棋も行われていて何とも面白い場所だった。ジャズ喫茶も健在で将棋を指し終わったあとはジャズと映画館通いがアカショウビンの日課。不勉強のツケは今に至り少ない時間は読書にあてる。三か所の癌を抱え残り時間は少ない。将棋の勝負では終盤の秒読みになりそうな頃である。毎日を充実して生きることなど不可能。それでも、それを目指し生きる、これしかない。先日は日曜日に学生時代以来の友人、I君、N君に手伝っていただき中古で買ったCDラック、衣装ケースを新居に運び込んだ。きのうは築地の病院へ。今度は下咽頭癌の定期検査だ。その間を縫う時間は殆ど居眠り。昨夜も部屋の片付けを深夜まで。それでも五時過ぎには目覚める。引っ越しの段ボール捨て、買ってきた蛍光灯でやっと部屋が明るくなった。これが文明生活というものだと改めて実感した。本日はアルバイト。霧雨だが日銭を稼がねばならぬ。明日は友人のN君から頂いたチケットでカンヌに出品した『光』(河瀨直美監督)を観に行く。きのう病院の帰りに観るつもりだったが、時間が合わなかった。

 それはともかく。加藤九段、本当にお疲れさまでした。将棋の面白さ、棋士たちの面白さ、見事さを教えて頂いたことはアカショウビンの人生に多くの豊かさを与えてくれました。心から感謝致します。

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2017年6月18日 (日)

団地の長閑な日曜日

 ここのところ朝が肌寒い。しかし日曜日の朝はアルバイトの仕事疲れを癒す貴重な時である。この数年はNHKラジオの「音楽の泉」を聴くのが習慣。今朝はベートーヴェンの〝三重協奏曲〟だ。かつて巨匠たちの共演として評判になった録音である。解説の皆川さんによるとベートーヴェンの作品のなかではベートーヴェン風が空回りもしている作品という。しかしこの十年くらいアカショウビンには繰り返し聴いて厭きない愛聴作品なのである。それは本日の録音(カラヤン指揮ベルリン・フィル、リヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチ)ではなく、フリッチャイ指揮、おや、おや、オーケストラがどこだったか、ソリストはアンダ、シュナイダーハン、フルニエは間違いないだろう。本日の録音は学生時代にレコードで聴いて以来。あらためて聴くとそれほど悪くない。しかし録音時のエピソードを何かの本で読むと、それは面白いが嫌いなカラヤンのバックでは敢えて聴くこともない。フリッチャイのほうが遥かに好もしい。この頃のベートーヴェンは交響曲第3番〝英雄〟を書きあげ正に次のウィーンの音楽界から西洋音楽を担う勢いをもっていた頃だ。この作品にもそのエネルギーが満ちている。2楽章の速度指定は皆川さんの解説によればア・ラ・ポロッカ。ポーランドの舞曲ポロネーズ風に。ここのところがアカショウビンは実に好きなのである。ショパンの作品で馴染んでいるためかもしれない。

 天気はよくないが新居の団地の周辺は鳥たちの囀りも好ましい。穏やかな日曜日だ。昨日の夕刊には今年公開された『聖の青春』の試写会でコメントを述べた将棋棋士、森 信雄七段のインタビュー記事も掲載されていて興味深く読んだ。現役を引退するということだ。65歳。アカショウビンと殆ど同世代といってもよい。将棋にのめりこんでいた学生時代から名前は存じていた。同時代を生きた幸いを心から言祝ぎご苦労さまと言いたい。コメントを述べる広い試写会会場では遠目だったが飄々とした関西弁のコメントがお人柄を実感させた。記事中で「僕自身も実力がなく、奨励会に拾われた人間。だから出来が悪くても、一生懸命やる子なら引き受けたくなる」の言や好し。優れた師弟関係とはいいものである。ダメな師匠と優秀な弟子、優秀な師匠とダメな弟子、様々だろう。しかし師弟関係とは親子関係以上のものがあるのではないか?それは血縁という形而下と形而上の違いとも言えるかもしれないが。『聖の青春』はレンタルショップで貸し出された。将棋ファンでなくとも一人の将棋棋士であり世間的に言えば短い人生を終えた若者の一生を観る者それぞれに思索を促す作品に仕上がっている。多くの人にお奨めしたい。

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2017年6月16日 (金)

胃の定期検査へ

  アルバイトの合間を縫って胃ガンの手術をした都内の病院へ定期検査に。前回は膀胱がんの抗がん剤治療で訪れたのだった。あれに比べればこちらは楽。主治医が話を聞くだけ。というより未だ生きているのを確認するだけなのだろう。

  電車を乗り継ぎ地下鉄の深いエスカレーターを何度も昇り降りし地上に出ると眩い陽光。いつもの弁当屋で昼食を買う。病院までの道端には街路樹の根元に近隣の人たちが植えた様々な花々が心和ませる。二年前は慌ただしい年だった。退職後、次の仕事の算段で試行錯誤していたとき幻覚など体調の異変で市立病院を訪れたら胃癌を指摘され七月に二週間の検査入院。そこで胃の全摘出手術をする予定がセカンド・オピニオンでこの病院を訪れたら全摘でなく腹腔鏡下手術で済むという。医者の印象も良かったのでこちらで手術することに決めたのだった。ところが二週間で退院できる予定が46日も入院した。その経緯は逐次書いた。胃の次は昨年の下咽頭がん、膀胱がんの手術だ。三つのがんを抱え未だ生きている。しかしそう長くはないだろう。昨年から二度の引っ越しで新たな環境にも慣れていかなくてはならない。それは、死を想定しながらそれまでとは異なる時間を生きるということである。

それは具体的にどういう事か。何といえばよいか。思索しつつ現在の新たな時間を開くということかもしれない。、

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2017年6月10日 (土)

人生は音楽の時間のようなものか?

 あらゆる時間は過ぎ去るけれども、/グールドの時間は過ぎ去らない。/聴くたびに、いま初めて聴く曲のように聴く・・・/人生は、音楽の時間のようだと思う

 長田弘の詩をきのうの東京新聞の〝筆洗〟は引いている。グールドが弾くワーグナーの楽劇〝ニュルンベルクのマイスタージンガー〟のピアノ演奏に詩人は共鳴したのだ。その前節で詩人はこうも書いている。

 芸術は完成を目的とするものではないと思う。/微塵のように飛び散って、/きらめきのように/沈黙を充たすものだと思う。

  きらめきのように沈黙を充たす、の言や好し。グールドの9分32秒の演奏録音でなくともそういう時間を誰しも経験したことがあるのではないか。引っ越してから段ボールの中に入ったままのCDやレコードが出てきて新鮮な気持ちで新たに聴いている。そのうちグールドの〝ニュルンベルク~〟も出てくるかもしれない。そのとき詩人と同じように感ずるかどうかは定かでないけれども。

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2017年6月 9日 (金)

病み、疲弊し、消耗すれども

  引っ越しはしたものの部屋は片付かない。きのうはアルバイトの帰りカーテンを買った。団地は他所様の視線が気になる。両向いは児童公園や庭で離れてこちらの様子は殆ど遠目にしか見えない。カーテンで遮蔽するということは外を気にするというより内側の空間を自分の気に入るように設えるということなのだ。カーテンはお手頃価格のものが買えた。最近駅前にオープンした大手企業である。なかなか気の効いた商品が多いのだ。

 ともあれ粛々と部屋を機能的に整え終わりに向かう、これである。引っ越しで一年間未開封の段ボールの中から聴きたいCDや必要な書物、資料も出てきた。鷗外の『伊澤蘭軒』は何と以前に買ってあった。先日は図書館から大判の全集を借りて読み始めたがこれで傍線や書き込みもできる。引っ越しの功徳というべきものだ。この流れを引き寄せる。それは将棋、囲碁でいう形勢を優勢に持っていくということだ。

 先日からアルバイト作業で右手が上がらなくなった。体力を消耗する仕事なのである。下層労働者の現場は多かれ少なかれそのようなものだ。病と年齢による負担は日々高まる。体力も維持するのがやっとだ。しかし娑婆でやり残した事は多々ある。

 先般亡くなったS・スクロバチェフスキーのブルックナー交響曲全集を中古で手に入れた。かつてバラで買って聴いていたものだ。逝去後に特集が組まれるかと思ったがさほどの話題にもならなかった。しかしこのブルックナー指揮者の録音は無視できないというより熟聴すべき解釈だ。これを新居でじっくり聴く楽しみができた。

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2017年6月 4日 (日)

遠きより友来たる

 中国旅行からきのう帰国した高校時代の同級生T君に会いに東京駅へ。ところが朝の電車が人身事故で止まっているではないか。駅は大混雑。私鉄からJRに乗り換えられたのは幸い。T君に連絡をとり少し待ち合わせ時間を遅らせた。途中の駅はJR横浜線の小机。学生時代アルバイトで通った駅だ。その頃は都内の江戸川区に棲んでいた。そこから通うのは大変。しかし日銭を稼がねばならない。地質調査のボーリングの土木作業できつかったが日当が良かったのだろう。何日か通ったのだった。
 横浜駅で東海道線に乗り換え東京へ。退社以来この路線に乗るのは久しぶりだ。
 T君は中国の西安で2泊3日を過ごしたらしい。一昨年はポーランド旅行も。アウシュヴィッツも訪れた。その話も興味深かったが今回も中国の現状が聞けるのを楽しみにした。
 一年ぶりに会い新幹線の出発時間まで話した。話は尽きない。早めに切り上げ別れた。西安の写真と去年のポーランド旅行でアウシュビッツの写真も再見した。
 一年が過ぎ仮住まいから引っ越しも先週済ませた。一年間、同居人さんには本当にお世話になった。心から感謝する。お互い今後の健闘を祈るのみ。二頭の犬たちと別れるのは残念だが此の世の縁の不可思議を体験できたのは幸い。冥土へのよい土産となった。

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