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2017年5月21日 (日)

凡庸と非凡

 プロの将棋や囲碁で凡庸な手を指したり打ったりしては勝負に勝てない。トッププロの勝負は紙一重の差。羽生善治や趙治勲の実績と才能の非凡さというのはそういう修羅場を潜り抜けたところに燻銀のように光るものなのだ。

 音楽ではグレン・グールドにそれを聴く。バッハ弾きとして彗星のように現れ50年の生涯を終えた。先日たまたま中古で買っておいたモスクワのコンセルバトワールの学生達の前で演奏したライブ録音を聴き感銘新ただった。1957年の録音である。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」でデビューして以来世界中で引っ張りだこだったのだろう。学生達の反応は敏感だ。最初はベルクのピアノ・ソナタ 作品1。これはショパン・コンクールの優勝者チョ・ソンジンも今年のサントリーホールでの日本公演で最初に弾いていた。2曲目はウェーベルン。作品27の変奏曲だ。一曲ごとにグールドの解説がつく。3曲目はクシェネクのピアノ・ソナタ3番からアレグレット・ピアチェボーレ、アニマート エ フレシビーレとアダージョ。どの作品もグールドは自家薬籠中のものとしているのが演奏からびしびしと伝わる。これを非凡というのだろう。そういう演奏だ。それはまた途中から演奏会に出ることを拒みスタジオ録音に限定することになるだけに貴重なライブ録音でもある。クシェネクのあとグールドがバッハを弾くと話しそれが通訳によって伝えられると学生達の間にどよめきが起きる。彼らもバッハでグールドを聴いているのだ。最初はフーガの技法から次にゴルトベルク変奏曲から抜粋して弾く。アカショウビンが聴いたレコード録音でグールドはピアノでなくオルガンで弾いていた。それも全曲ではなかった。なぜかその後も全曲は録音しなかった筈だ。このCDではそれが一部とはいえピアノで聴けるのが貴重だ。それに学生の聴衆を前にグールドの意気込みが伝わる気合い十分の演奏だ。

 ピアニストや指揮者の非凡とは楽譜を独自の読み、捉え方をする才能だが、それは言葉を変えて言えばコペルニクス的転回として視点を変える才能ともいえるだろう。また視えないものを視えるようにする才能とも言えるだろうか。「これまで人びとは、認識は対象に従わなくてはならぬと考えてきた。・・・しかしいまや、一度問題を逆にして試みるとよい。われわれの認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従わねばならぬとしたらどうであろうか」。これはカントの文章だったろうか。それによればわれわれが聴いているCDの録音という対象もそれを聴くわれわれの認識によって変わるということだ。しかしこのグールドの見事な演奏の価値は凡庸なこちらが変わっても微動だにしないように思える。

 それはともかく、グールドのCDは二枚組で二枚目にはレニングラード・フィルと共演したバッハのピアノ協奏曲第1番二短調BWV1052とベートーヴェンの第2番の協奏曲が収められている。これも貴重な録音だ。指揮はLadislav Slovak、ラディスラフ・スロヴァクと読むのか、未知の指揮者だ。ムラヴィンスキーでないのが惜しまれる。

 それともう一つ強烈な印象を受けた録音を紹介しておこう。オットー・クレンペラーが1934年にロスアンゼルス・フィルハーモニーを振ったベートーヴェンの第5番交響曲の録音である。ナチスの台頭でユダヤ人であるクレンペラーは米国に亡命したのだろう。この頃の米国のオーケストラの実力のほどをアカショウビンは知らないがこれは熱気がむんむんする演奏だ。何と1楽章のあとに聴衆の拍手が入るのである。ロスの聴衆はベートーヴェンの交響曲を聴いたことがなかったのか、それとも演奏の気迫に感動し思わず拍手したのか不明。しかしクレンペラーが戦後のスタジオ録音で入れたベートーヴェンの交響曲全集とはまるで異なる熱気に溢れた生き生きした演奏は録音状態の悪さは帳消しになるほどの演奏だ。もちろんスタジオ録音はそれはそれで素晴らしいのだが。

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2017年5月14日 (日)

長閑な日曜日

 ここのところアルバイト疲れから抜けだそうと心身がもがいていいるのであろう音楽や読書に少しずつ集中しようという欲求が生じているように思われ今朝は早めに目が覚め読書にも二時間近く集中した。一昨年の入院前から習慣になっているNHKの将棋、囲碁、〝日本の話芸〟という番組は日曜日の日課のようなもの。本日の将棋はマスコミで話題にもなっている藤井聡太四段の登場である。いつものように番組終了までの熱戦かと思えば時間を余しての終局。途中見逃したが疾風の如き終盤の寄せだった。きのうの新聞では連勝記録を17に伸ばしたという。どうもその強さは本物のようだ。こうなると当然比較されるのは羽生である。羽生の実績に至るまでは長い道のりではある。将棋界にとっては話題作りと棋界にとっても久々の大型新人の登場で内外ともに活況で何よりだ。

 先日は「3月のライオン」の後篇を観て来た。なかなかの仕上がりで4時間以上の大作になった理由を納得させられた力技ともいえる。これまた将棋界、将棋ファンにとっては悦ばしいかぎり。そんななかで時に想い起こされるのは小池重明という真剣師の事である。真剣師とはアマチュアの賭け将棋指しのことである。破天荒な一生は本にもなっている。棋界の活況は悦ばしくとも勝負師とは盤上の勝ち負けはそれを生業とする者の殺し合いである。そこに面白さを超えた凄みという感覚が生じる。小池という真剣師はそれを体現し果てた勝負師だった。

 「聖(さとし)の青春」という作品には実在した村山聖という棋士の一生を描いてその凄みの一端が描かれていた点で秀作と思う。それは羽生との会話を通して描写されていた。

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2017年5月 4日 (木)

言語は人間固有の音楽なれば

表題は子規が明治22年(1889年)『詩歌の起源及び変遷』で書いている文言であるらしい。以下のように続く。「言語の調子よき事は音楽の調子が如く聞く人に面白く感ぜしめ、其上最も記憶に便なるが故に終に面白きこと感動せしことを故(ことさ)らに調子よく作り、之を歌ふに至りて始めて真正の詩歌とはなりたるなり」。

  上は九鬼周造の『時間論』(岩波文庫2016年2月16日)の解説で編者が引用している。編者はそのあとで九鬼の「詩は言語によって哲学し音楽する芸術である」と述べているらしい。実に刺激的で啓発される卓見ではないか。同書には他に二編の九鬼の論考が収められている。『時間の問題』で九鬼は欧州滞在時に出会ったベルクソンとハイデガーの時間論にも言及し考察している。これも難解であるが精読、熟読を促す論考である。

言語が人間固有の音楽であるならば人間の心身も音楽ではないだろうかというのがアカショウビンの愚考である。日々のアルバイト作業でリズムは不可欠。そこには生の律動とでもいう行為が生成し時を活性化する。連休期間もその作業が生活を律する。今月いっぱいで仮住まいも移転しなければならない。

九鬼には『偶然性の問題』という論考がある。昨年の入院中から読んでいる田辺 元の著作と思索にも偶然性の問題はマラルメの詩を介して重要な位置を占めている。これらについても考察していきたい。

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