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2017年1月22日 (日)

天才たちと犬の視ている景色

 この数年よく聴くようになった日曜日朝のNHKラジオ第一放送「音楽の泉」で先週は夭折したルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティが録音したショパンのワルツ集を放送していた。久しぶりに寝床で集中して聴いた。飛行機事故だったか惜しまれる才能としてショパンの演奏録音では必ず名盤に選ばれていた。アカショウビンは若い頃ショパンがあまり好きではなかった。若気のいたりというやつで甘ったるい作品には嫌悪感さえ抱いていた。同様にショパン国際コンクールというものにも殆ど興味はなかった。しかし、クラシック音楽という今となっては特殊な世界、業界のなかで伝えられる往年の名人、天才の残した録音を聴く楽しみは此の世を生きる悦びであり哀しみであり励ましである。それは還暦を過ぎ三つのガンと共生する現在でも変わらない。ショパンについてはその後長年あれこれ聴いてきて未聴の作品や主要作品をいろんな演奏家で聴く楽しみは増えた。

 先週の火曜日、友人の招待で、一昨年のショパン国際コンクール優勝者の韓国人ピアニストのリサイタルが聴ける機会を授かった。会場はサントリー・ホール。久しぶりである。席は舞台に向かって右側ピアニストを正面に見られる位置。これは幸い、と気合いを入れた。プログラムを見ると楽しみと期待はさらに高まった。オール・ショパンと思ったら最初はベルク、次にシューベルト、それからショパンの前奏曲。その曲目構成にもピアニストの意欲が読み取られ、なるほどと納得。これならピアニストとしての力量がアカショウビンにも計れそうだ。特にシューベルトは一昨年、昨年の入院時にアンドラーシュ・シフの録音をよく聴いた。

 午後7時開演。プログラムの写真ではあどけさの残る若干23歳のチョ・ソンジン登場である。舞台正面を見れば女性の多いのが目立つ。まぁ、ショパンは存命時から女性には人気があったのである。それはともかく、ベルクのソナタ・ロ短調・作品1、シューベルトの第19番ソナタ・ハ短調・D958と聴いてきてショパンへの期待はそれなりに高まった。ベルク、シューベルトはさすがに弾きこなしてはいたが圧倒されたというわけではない。しかしショパンの「24の前奏曲・Op28」には圧倒された。ピアニストはその演奏で会場を支配したと言ってよい。ホールの巨大な空間にピアノが発する音は響き渡り一台のピアノが敢えて言えば神のように鳴り響きピアニストは王であり神の声を仲介する巫であった。聴衆は王と巫の演説を拝聴する民衆の如しだった。そのような陳腐な喩えはその時空間をいくらも表現しているとはいえないけれども。最後のニ短調を弾き終えると聴衆の喝采は奥ゆかしい日本の聴衆とは思えない興奮ぶりだった。アカショウビンも前奏曲を久しぶりに一挙に聴いて深く感銘した。チョは、そこで確かにショパンの魂を仲介する巫だった。作品に対するチョの解釈は専門家からすればさまざまだろう。しかし聴衆の心と精神に食い込み鷲掴みにする才能というものが確かにあることをその夜アカショウビンは経験した。

 天才たちが視ている景色というものがあるらしい。以前のブログで紹介した昨年公開された『聖の青春』という映画で、夭折した棋士、村山聖(さとし)が羽生善治・前名人と交わす会話にアカショウビンは強烈な印象を受けた。それは村山が、羽生さんは僕たちと違う世界を見ている、というものだった。それに応えて羽生は、将棋を指していて手を読んでいると深い海の底に沈み込んで恐ろしくなることがあると話した。さらに羽生は、村山さんとならその海の底に入っていけそうな気がしますよ、と答えていた。そのシーンは、この映画のもっとも印象的なシーンだった。天才たちにしか見えない世界。それは一体どういものなのか。しかし、恐らくその世界は、我々が見ている可視の世界に一端は現れているのではないか。あるいは現れる時があるのではないか。

 昨日、同居している二匹というより二頭の大型犬の一頭が腫瘍の摘出手術で入院。幸いに手術は成功。今朝退院し引き取って来た。もう一頭は神経質だが、こちらはボス型で鷹揚な性格。しかし、さすがに傷跡は生々しく痛々しい。それでも気丈に歩いて車に乗った。その犬たちが視ている世界というものがある。それは人間の天才たちが視ている世界とどこかで相通じるものなのだろうか。このところアカショウビンは冥土の土産を多発し嫌がられ、呆れられているけれども、冥土があるのかかどうかわかったものではない。しかし次の世があるとして、無意識のどこかに前世の生きた痕跡があるというのは何やら興味深いではないか。

 チョのピアニストとしての精進はこれから更に新たな世界を切り開き高みに昇っていくだろう。しかし、それは精進すれば、という条件つきだ。それはピアニストとしてだけでなく人間としてである。余計なお世話ではあろう。それをアンコールで弾いたドビュッシーの「月の光」を聴いて直感した。日課の夜の犬たちとの散歩で見上げる夜空の月や星座を眺めて考える崇高なるものをピアニストは明確な意志で表現しているように思えたからだ。崇高なるものは月や星座そのものにではなく、ドビュッシーや或る特定のピアニストを介して、それを聴き取ろうとする者に伝えられる。それは或る瞬間といってもよい。先日のリサイタルは貴重な時と空間だった。それをさらに深く熟考しなければ至福の時は経験されないこともまた確かなことである。

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