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2017年1月30日 (月)

三ヶ月ぶりの通院治療

 もう三ヶ月経ったのだ。都内の病院で膀胱がんの手術を受けたのは昨年8月2日。それから三ヶ月毎に定期検診と抗がん剤治療を続けてきょうは手術後2回目。午前10時30分の予約で待機中。いやなのである、この治療。ポケットベルで血圧を測り受付に来いとの指示。血圧は上が115、下が74。脈拍数は73である。受付では顔見知りの女性が電話をしながら、ニコッと笑い体温計を渡す。
 ベルが鳴り説明室に来いの指示。主治医のK先生がにこやかに微笑んでいる。疑問点など質問。アカショウビンのように三つのがんを抱えているケースについて。それらがリンクしているのは大腸がん、腎盂がん、乳癌など遺伝子変異の可能性のあるガンの場合。アカショウビンの場合、それにあたるという報告は受けてないという回答だった。
 次の内視鏡(膀胱鏡)検査のためロビーで待機。そのあと抗がん剤の注入である。これが苦痛なのだ。K医師の説明では手術後三ヶ月に一度、二年間に8回行うという。それまで生きているのかどうか。
 正午5分前、処置が終わりロビーに戻ったところ。前回より痛みが強かったような。今回はカメラが入っている膀胱内の映像をディスプレイで見るように言われた。気の弱いアカショウビンはちらりと見ただけ。K医師は手術後の経過がよいことを知らせたかったのだろう。ところがこちらは痛みと異物が尿道に侵入してくる違和感と不快感に耐えるのに意識は占領されてそれどころではない。しかし不慮のミスもなくカメラは体外に戻ってくれた。しかし、これで終わりではない。30分から1時間後に抗がん剤の注入である。
 それにしても、厄介なガンに罹ってしまったものだ。前世の因果なのか。そうかもしれぬ。これくらいで済んでいるのはましなほうかもしれない。
 抗がん剤の注入処置が終わり別室で休憩。俯せになり15分間休む。処置時はカメラの時より痛みは強かった。大声を出さずにはいられなかった。アカショウビンは尿管が細いためだそうだ。それにしても難儀な部位のガンに罹ったものである。しかし受け入れるしかない。生きるということは或る時に苦行であり或る人々にとっては出自や病によって自分の責任外のことで背負わなければならない苦しみを抱えて生きねばならないこともあるからだ。それを仏教では業というのではなかったか。
 処置後の最初の排尿も痛みを伴った。あぁ、しかし耐えて生きねばならない。楽しみは読み残した本を読み終え聴き残した音楽を聴くことだ。そうそう、それに映画だ。

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2017年1月25日 (水)

映画の台詞

 東京新聞の“筆洗”は映画と文学の話題で面白い記事が載ることがある。今朝の朝刊は先日亡くなった松方弘樹氏(以下、敬称は略させて頂く)の追悼。『ゴッドファーザー』のアル・パチーノの起用の話から始め『仁義なき戦い』の松方の話に渡す。引用する松方の台詞が作品の或るカットを想起させた。「あんた神輿やないの。神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみいや、おう」と主役の菅原文太に詰め寄るシーンだったろう。そこで松方は俳優として観客に痛烈な印象を与えた。アカショウビンもそこで松方が映画史に残る役者になったと思った。1973年のこの作品は久しく観ていないが近いうちにレンタルショップで探してみよう。最近借りてきたDVDを全編観ずに返すことも多くなった。こちらの体力と集中力が衰えてきていることもあるが作品がつまらないこともある。映画でも文学作品でも名作を観て読むことは精神を活性化、励起させる。日々のアルバイト労働は体力を消耗させること甚だしいが、工夫参学は仏者の教えである。古人の言葉は傾聴しなければならぬ。同様にアカショウビンには音楽が有力な活力剤の如きものである。先日のチョ・ソンジン、リサイタルに刺激されショパンの未聴録音も探してみよう。

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2017年1月22日 (日)

天才たちと犬の視ている景色

 この数年よく聴くようになった日曜日朝のNHKラジオ第一放送「音楽の泉」で先週は夭折したルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティが録音したショパンのワルツ集を放送していた。久しぶりに寝床で集中して聴いた。飛行機事故だったか惜しまれる才能としてショパンの演奏録音では必ず名盤に選ばれていた。アカショウビンは若い頃ショパンがあまり好きではなかった。若気のいたりというやつで甘ったるい作品には嫌悪感さえ抱いていた。同様にショパン国際コンクールというものにも殆ど興味はなかった。しかし、クラシック音楽という今となっては特殊な世界、業界のなかで伝えられる往年の名人、天才の残した録音を聴く楽しみは此の世を生きる悦びであり哀しみであり励ましである。それは還暦を過ぎ三つのガンと共生する現在でも変わらない。ショパンについてはその後長年あれこれ聴いてきて未聴の作品や主要作品をいろんな演奏家で聴く楽しみは増えた。

 先週の火曜日、友人の招待で、一昨年のショパン国際コンクール優勝者の韓国人ピアニストのリサイタルが聴ける機会を授かった。会場はサントリー・ホール。久しぶりである。席は舞台に向かって右側ピアニストを正面に見られる位置。これは幸い、と気合いを入れた。プログラムを見ると楽しみと期待はさらに高まった。オール・ショパンと思ったら最初はベルク、次にシューベルト、それからショパンの前奏曲。その曲目構成にもピアニストの意欲が読み取られ、なるほどと納得。これならピアニストとしての力量がアカショウビンにも計れそうだ。特にシューベルトは一昨年、昨年の入院時にアンドラーシュ・シフの録音をよく聴いた。

 午後7時開演。プログラムの写真ではあどけさの残る若干23歳のチョ・ソンジン登場である。舞台正面を見れば女性の多いのが目立つ。まぁ、ショパンは存命時から女性には人気があったのである。それはともかく、ベルクのソナタ・ロ短調・作品1、シューベルトの第19番ソナタ・ハ短調・D958と聴いてきてショパンへの期待はそれなりに高まった。ベルク、シューベルトはさすがに弾きこなしてはいたが圧倒されたというわけではない。しかしショパンの「24の前奏曲・Op28」には圧倒された。ピアニストはその演奏で会場を支配したと言ってよい。ホールの巨大な空間にピアノが発する音は響き渡り一台のピアノが敢えて言えば神のように鳴り響きピアニストは王であり神の声を仲介する巫であった。聴衆は王と巫の演説を拝聴する民衆の如しだった。そのような陳腐な喩えはその時空間をいくらも表現しているとはいえないけれども。最後のニ短調を弾き終えると聴衆の喝采は奥ゆかしい日本の聴衆とは思えない興奮ぶりだった。アカショウビンも前奏曲を久しぶりに一挙に聴いて深く感銘した。チョは、そこで確かにショパンの魂を仲介する巫だった。作品に対するチョの解釈は専門家からすればさまざまだろう。しかし聴衆の心と精神に食い込み鷲掴みにする才能というものが確かにあることをその夜アカショウビンは経験した。

 天才たちが視ている景色というものがあるらしい。以前のブログで紹介した昨年公開された『聖の青春』という映画で、夭折した棋士、村山聖(さとし)が羽生善治・前名人と交わす会話にアカショウビンは強烈な印象を受けた。それは村山が、羽生さんは僕たちと違う世界を見ている、というものだった。それに応えて羽生は、将棋を指していて手を読んでいると深い海の底に沈み込んで恐ろしくなることがあると話した。さらに羽生は、村山さんとならその海の底に入っていけそうな気がしますよ、と答えていた。そのシーンは、この映画のもっとも印象的なシーンだった。天才たちにしか見えない世界。それは一体どういものなのか。しかし、恐らくその世界は、我々が見ている可視の世界に一端は現れているのではないか。あるいは現れる時があるのではないか。

 昨日、同居している二匹というより二頭の大型犬の一頭が腫瘍の摘出手術で入院。幸いに手術は成功。今朝退院し引き取って来た。もう一頭は神経質だが、こちらはボス型で鷹揚な性格。しかし、さすがに傷跡は生々しく痛々しい。それでも気丈に歩いて車に乗った。その犬たちが視ている世界というものがある。それは人間の天才たちが視ている世界とどこかで相通じるものなのだろうか。このところアカショウビンは冥土の土産を多発し嫌がられ、呆れられているけれども、冥土があるのかかどうかわかったものではない。しかし次の世があるとして、無意識のどこかに前世の生きた痕跡があるというのは何やら興味深いではないか。

 チョのピアニストとしての精進はこれから更に新たな世界を切り開き高みに昇っていくだろう。しかし、それは精進すれば、という条件つきだ。それはピアニストとしてだけでなく人間としてである。余計なお世話ではあろう。それをアンコールで弾いたドビュッシーの「月の光」を聴いて直感した。日課の夜の犬たちとの散歩で見上げる夜空の月や星座を眺めて考える崇高なるものをピアニストは明確な意志で表現しているように思えたからだ。崇高なるものは月や星座そのものにではなく、ドビュッシーや或る特定のピアニストを介して、それを聴き取ろうとする者に伝えられる。それは或る瞬間といってもよい。先日のリサイタルは貴重な時と空間だった。それをさらに深く熟考しなければ至福の時は経験されないこともまた確かなことである。

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2017年1月14日 (土)

一日の労働

 アルバイトの物流センターまでは電車を乗り換え最寄の駅から送迎バスで行く。駅からバスの停留所へは東に歩く。きょうは雲は多いが日差しも射す。陽の光はありがたいものである。去年の夏からありついたアルバイトも半年になろうとしている。よく続けられていると思う。楽な作業ではないのだ。作業を終えるとへとへと。帰りのバスはアカショウビンだけでなく、他の多くの若い連中も多くが居眠りしている。若い者たちにも決して楽な仕事ではないのだ。中高年にとって仕事があるだけでも良しとしなければならない。それが世間の常識なのである。

 そんな日常で朝の出勤時のある瞬間に出会う陽の光には崇高さがある。また12日は満月だった。日課の深夜の犬たちの散歩の時は夜空を見上げるのが楽しみの一つ。冬の空の主役は南から中天に輝くオリオン座である。満月は頭上に煌々と輝いていた。月の姿と星々の輝きと星座にも崇高さがある。

 日々の労働はきつくとも、朝の光と深夜の夜空の星座を眺めながら崇高とは何か、暫し考えてみるのは冥土での話題にもなるだろう。

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2017年1月 6日 (金)

天文少女

 本日の東京新聞“筆洗”が興味深かった。昨年暮れに亡くなられた米国の天文学者ベラ・ルービンさんの事を書いている。宇宙の四分の一を占めながら見ることができない謎の物質「ダークマター(暗黒物質)」が存在する証拠を、銀河が回転する速度を観測することから発見した人という。それはノーベル賞級の業績らしい。10歳の頃から星空に夢中になり天文学者を志した。ところが何と、高校の教師からは「科学を志すには力不足」と言われ、名門大学からは「当大学院は、女性を受け入れない」と断られたという。しかし四人の育児をしながら学究生活を続け大発見を実現した。88歳の見事な生涯と思われる。
 昨年五月に引っ越して以来、深夜の犬との散歩で夜空を見上げることも多くなった。南のオリオンから北のカシオペア、北斗が雄大で美しい。アカショウビンは少年のころ天文学者になりたかった。そのうち他の道に迷い込んでしまった。夜空を見ればその頃を思い出す。今宵は犬たちと暗黒物質に思いを馳せてみよう。

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2017年1月 3日 (火)

ゴールはない

 新聞のテレビ欄に指揮者の名前はなかったのでかえって楽しみにしてテレビの電源を入れた。恒例のウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」である。指揮者は何と、あの若手である。グスターヴォ・ドゥダメル。30代半ばで「ニューイヤー~」指揮者とは破格の抜擢というものだが、そういう評価ということだろう。いくつか録音は聴いたが、評判ほどではないというのが現在のアカショウビンの見立てならぬ聴き立て。
 しばらくして場面が変わり、昨年コンサートマスターを退任したライナー・キュッヒル氏に話を聞いている。45年間の在職期間という。お疲れ様である。あの演奏中の謹厳な顔が柔和な表情に。入団当初のカール・ベームとのエピソードなど、さもありなんと面白かった。昨年の8月に退団し夜の時間を家庭で過ごすようになった、それまでは毎晩遅くまで演奏会だったからね、というコメント。毎日、練習を欠かさない。45年間世界最高のオーケストラのトップを勤め終えても、音楽を演奏することにゴールはない、と言う。その言や好し。恐らく人の生もそうなのではないか。何かを究めようと繰り返す行為にゴールはない。
 本日から「仕事始め」。天気好し。いつもの喫茶店は休み。別の店で朝食を済ませた。帰りの送迎バスではヘトヘトになり居眠りするだろう。しかし、この繰り返しにはゴールしなければならない。

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