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2016年12月 7日 (水)

世界像の時代

 5日の東京新聞朝刊6面(11版)は、ミャンマーで暮らすイスラム教徒の少数民族ロヒンギャへの迫害が深刻化していることを伝えている。2012年にミャンマー西部ラカイン州で仏教徒が彼らを襲い多数死亡者がでた。以降、昨年から今年にかけての経緯が概略されている。事の発端の説明はない。しかし宗教的軋轢が原因であることは推測される。仏教国ミャンマーにしてこの現実は何ということか。宗教対立は融和不可能ということか。我々はこのような時代と世界をどのように超克できるのか。それは先の大戦の発端の理由の一つとも絡んでくるだろう。当時の知識人たちは「近代の超克」という表題で座談会を行ない考えを述べあったのだから。それはともかく、世界とは何か。われわれが考える世界とは何か。

 「存在するものの本質への反省と、真理の本質についてのなんらかの決定がおこなわれるのは、形而上学においてです。それが存在するものになる或る一定の解釈を加えたり、真理を一定の形で捉えたりすることをつうじて、ひとつの時代の本質形態の根拠を与えながら、形而上学はその時代を基礎づけてゆくのです。そのような根拠は、その時代を特長づけているすべての現象を貫いて、支配しています。また逆に、これらの現象を充分に反省するために、これらの現象のなかに、形而上学的根拠が認識されなければなりません。反省はすなわち勇気であって、これは[根拠づけという形而上学の]独自の諸前提の真理と独自の目標の[在り]場所とを、問うに値する最上のものにするのです。」

 ハイデッガーが1938年6月9日に『形而上学による近代的世界像の基礎づけ』という題目で述べた講演の出だしの一声である。他講演者たちに課せられた共通する主題は『近代の世界像の基礎づけ』。これにハイデッガーは先の表題で考えを述べたわけである。我が邦の「近代の超克」という主題と共時的にドイツでは注目の哲学者の講演として熟読すべき論説だろう。このなかで〝反省〟という用語には補遺が用意され講演では述べられなかった。それも引いておこう。

 反省とい問い方は、それが予め存在へと問うのであって、根拠のないものや問題をもたないものにと決して陥らないのです。存在は反省にとって、依然として最も問うに値するものです。反省することは、存在にギリギリの抵抗を見出し、その抵抗は、存在の光へと押しだされた存在するものを、真剣に取扱うことを固く主張するのです。思考と決断とを、この近代という時代特有の本質的なもろもろの力の活動範囲へと、置くことです」。(桑木 務訳  理想社 昭和37年1月25日)  

 『存在と時間』で展開された論説をハイデッガーは説明し〝世界〟を像として、あるいは像ではない〝世界〟を述べる。

 「世界像とは、本質的に解すれば、それゆえ、世界についてのひとつの像を意味するのではなくて、世界が像として捉えられていることをいうのです。(中略) 存在するものが世界像となる場合に、存在するものについて全体として、本質的な決定がおこなわれるのです。存在するものの存在は、存在するものが表象されてあることにおいて、探求され且つ見いだされるのです。(同書p29)

 この講演は像に満ち溢れ、像で思考し思考しない時代を生きているともいえる今こそ熟考すべきものと解する。

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