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2016年12月27日 (火)

アルバイトはつらい

 仕事があるだけいいじゃない、そんな世間知らずの輩と現実を語る精神的ゆとりはアカショウビンにはない。7月20日から手術費用を稼ぐために職を得た現在の職場だが昨日もきょうも早上がり。契約では午前10時から午後7時まで。時給千円。交通費は現場への送迎バスのみ。本来なら日当8千円が、きょうのように5時あがりだと2千円の当て外れ。昨日は4時だ。かつかつの生計では来年の希望など語るもアホらしい。自業自得はわかっている。しかし現政権の首相、閣僚、公明党のやること為すことに怒りが沸き起こるアカショウビンには、これは経験を介して政治責任を問うべき話ではないかと考えるのである。
 派遣された我々を使う会社は大阪の会社だ。彼らの多くが関西弁で話す。それもテレビで横行する下品な関西弁だ。関西の正しい関西弁からすれば関西弁もどきとも言えるかもしれない。そのガサツさは不愉快だ。それはともかく人員配置も気まぐれ。アルバイトなんて人間扱いしないのだ。恐らくそれくらいの認識であることは酷使される我々が身に染みて実感する。だんだん怒りが吹き上げてきた(笑)。この続きはあとで。いま帰りの送迎バスの車中。もうすぐ駅に到着する。

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2016年12月20日 (火)

死に向かう日常

 築地の国立がん研究センター中央病院へ月に一度の定期検査へ。本願寺前を歩くと歳末の活気はあまり感じられない。それでも24時間営業の寿司チェーン店の看板は相変わらず。病院に到着し診察を待つと珍しく早く呼ばれた。主治医のY医師は手術跡を触診し鼻からカメラを入れ見る。変わりはないと言う。来月の診察日を決める。そそくさと終わりそうなので質問。明快な回答を得て診察終了。何とも流れ作業の一環というのは毎度のことではある。1時間は待たされるつもりできたので拍子抜け。院内は高齢者が多い。車椅子で移動する初老の男。カメラを入れる前に吹きかける液体が残っているのを一階の売店で買ったジャスミン茶で流す。目の前を点滴を右手で支えた若い女性患者が足早に過ぎる。
 久しぶりだ、市場をぶらついてみよう。入院している時には朝晩見下ろすのを楽しみにしていた景色だ。
 市場に入ると地下鉄の駅から病院までの通りの様子とは一変。外国人観光客で前に進むのも一苦労だ。それに何と新しい橋が架かっているではないか。新たに建てられている建物の中を好奇心に駆られ観て回った。店頭売りしていた長崎産の煮干しを買う。いつもスーパーで買っているのより安い。ぶらぶら歩きながら食べる。以前の仕事での定番のコースを辿り波除神社へ。黒人男と白人女のグループが陽気に記念撮影をしている。平日の昼前の市場の活気はいいものだ。五輪に向けてますます賑わうことだろう。アカショウビンが此の世からいなくなったあとも。
 昼メシに目当ての店へ行くと貸し切りという。少し腹をたて天丼屋へ。近くの席で金髪の若い男と日本人の若い女と中年男のグループが話している。フィッシュアンドチップスと言うのが聞こえたからイギリス人かもしれない。自分の食べている煮干しとフィッシュの音が交差した。フィッシュアンドチップスというときまって開高健の書いた話を思い出す。酒好きの開高がロンドンの街中でビールかウィスキーを飲みながらツマミにフィッシュアンドチップスが見事によくあうという文章だった。外国生活もしたような若いかわいいけれど頭の悪そうな女の笑い声と会話を聞くともなく聞きながら安くておいしい天丼を食べ終えた。
 夕方に知人と東京駅近くの事務所で会うまで時間があるのでぶらぶら歩く。萬年橋の木製のベンチで休憩。地下鉄の東銀座からお茶の水まで移動。中古CDショップでCDを物色する。少し関心のあるピアニストなのだ。その話は新たに。冥土の土産は多いほうがよい。

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2016年12月10日 (土)

屁の様な気焔

 漱石がまな弟子の鈴木三重吉に宛てた手紙の中の一節を昨日の東京新聞・朝刊一面の【筆洗】で引用している。<書斎で一人で力んでいるより大いに大天下に屁の様な気焔をふき出す方が面白い。来学年から是非出て来給え>。そうなのだ。鬱屈していてはいけないのだよ、アカショウビン君。屁の如き気焔をふきだせ。

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2016年12月 7日 (水)

世界像の時代

 5日の東京新聞朝刊6面(11版)は、ミャンマーで暮らすイスラム教徒の少数民族ロヒンギャへの迫害が深刻化していることを伝えている。2012年にミャンマー西部ラカイン州で仏教徒が彼らを襲い多数死亡者がでた。以降、昨年から今年にかけての経緯が概略されている。事の発端の説明はない。しかし宗教的軋轢が原因であることは推測される。仏教国ミャンマーにしてこの現実は何ということか。宗教対立は融和不可能ということか。我々はこのような時代と世界をどのように超克できるのか。それは先の大戦の発端の理由の一つとも絡んでくるだろう。当時の知識人たちは「近代の超克」という表題で座談会を行ない考えを述べあったのだから。それはともかく、世界とは何か。われわれが考える世界とは何か。

 「存在するものの本質への反省と、真理の本質についてのなんらかの決定がおこなわれるのは、形而上学においてです。それが存在するものになる或る一定の解釈を加えたり、真理を一定の形で捉えたりすることをつうじて、ひとつの時代の本質形態の根拠を与えながら、形而上学はその時代を基礎づけてゆくのです。そのような根拠は、その時代を特長づけているすべての現象を貫いて、支配しています。また逆に、これらの現象を充分に反省するために、これらの現象のなかに、形而上学的根拠が認識されなければなりません。反省はすなわち勇気であって、これは[根拠づけという形而上学の]独自の諸前提の真理と独自の目標の[在り]場所とを、問うに値する最上のものにするのです。」

 ハイデッガーが1938年6月9日に『形而上学による近代的世界像の基礎づけ』という題目で述べた講演の出だしの一声である。他講演者たちに課せられた共通する主題は『近代の世界像の基礎づけ』。これにハイデッガーは先の表題で考えを述べたわけである。我が邦の「近代の超克」という主題と共時的にドイツでは注目の哲学者の講演として熟読すべき論説だろう。このなかで〝反省〟という用語には補遺が用意され講演では述べられなかった。それも引いておこう。

 反省とい問い方は、それが予め存在へと問うのであって、根拠のないものや問題をもたないものにと決して陥らないのです。存在は反省にとって、依然として最も問うに値するものです。反省することは、存在にギリギリの抵抗を見出し、その抵抗は、存在の光へと押しだされた存在するものを、真剣に取扱うことを固く主張するのです。思考と決断とを、この近代という時代特有の本質的なもろもろの力の活動範囲へと、置くことです」。(桑木 務訳  理想社 昭和37年1月25日)  

 『存在と時間』で展開された論説をハイデッガーは説明し〝世界〟を像として、あるいは像ではない〝世界〟を述べる。

 「世界像とは、本質的に解すれば、それゆえ、世界についてのひとつの像を意味するのではなくて、世界が像として捉えられていることをいうのです。(中略) 存在するものが世界像となる場合に、存在するものについて全体として、本質的な決定がおこなわれるのです。存在するものの存在は、存在するものが表象されてあることにおいて、探求され且つ見いだされるのです。(同書p29)

 この講演は像に満ち溢れ、像で思考し思考しない時代を生きているともいえる今こそ熟考すべきものと解する。

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2016年12月 4日 (日)

無意識と歴史の関連

 「空想的リアリストは憲法九条があるために自国を護ることができないのですが、われわれは憲法九条によってこそ戦争から護られるのです」。この主張には左右中道各派から異論が呈されるだろう。もちろん若い人からも。その議論の核には精神分析の〝無意識〟と〝歴史〟と哲学者の〝論考〟が熟考されなければならない、というのが主張者の論説の内容だ。フロイト、アインシュタイン、中江兆民、北村透谷、内村鑑三、幸徳秋水、ホッブス、カントなど歴史上の人物が次々と援用、引用される。

 上は柄谷行人氏の近著「憲法の無意識」(2016年4月20日 岩波新書)による柄谷氏(以下、敬称は略させて頂く)の締め括りの一文である。アカショウビンはとても興味深く読んだ。実は先ごろ朝日新聞の柄谷のインタビューを友人が知らせてくれて読んだこともある。そのインタビューは現行憲法の内容を徳川時代までさかのぼり後期フロイトを援用、引用するものだった。またにカントの『永遠平和のために』(1795年)のことも話していたかもしれない。そのコピーがないのが残念。アカショウビンは柄谷の読者ではない。しかし本書で柄谷が説く論説と論拠には刺激された。それは昨今のマスコミ紙上で読む憲法論にはない面白さがある。インタビューでは第1章の「憲法の意識から無意識へ」、第2章「憲法の先行形態」が中心に説明されていたと記憶する。しかしアカショウビンは第3章の「カントの平和論」から読み始めた。それは柄谷の論拠がカントにあるような予想があったからだ。だが、思想家、柄谷行人はそれほど単純でもない。ヘーゲルのカント批判、マルクスまで引用し柄谷は徳川時代から明治時代までの歴史を辿り自説を展開する。それは現今の憲法論議に一石も二石も投じる内容をもつ。日々の仕事に消耗するアカショウビンだが、刺激される書を読めば活力も湧いてくる。

 米国の大統領選や我が国の現政権の動向に憲法論議は不可欠。今朝の東京新聞の朝刊にはドナルド・キーン氏が〝玉砕の悲劇 風化恐れる〟の見出しで東京下町日記を書いておられる。アカショウビンは駅売りで買っているのだが買い忘れることもある。この稀有の日本文学者の文章を読むことは多くの刺激を受ける。三島由紀夫の命日を過ぎ今月は先の大戦の開戦の月である。暮れの喧騒のなかで何か書かねばならない衝動にも駆られる。ハイデッガーは『世界像の時代』の演題で1938年6月9日に講演している。先日たまたま読み直したがドイツの戦争体制のなかで興味深い論考である。この感想も述べてみたい。

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