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2016年11月17日 (木)

鷗外の短編

 梅原猛氏が新聞連載の記事で鷗外の短篇小説を改めて読んでいる感想を書いている。『山椒大夫』と『高瀬舟』だ。両作品の筋を記したあと、帝国軍人だった鴎外は、明治時代、世界の五大強国になったのは、社会の底辺に住む人間の犠牲の上に成り立った、として鷗外はそのような人々の悲しみの物語を、江戸時代以前に置き換え、日本帝国の発展の陰で犠牲になった人々の鎮魂を行ったのではなかろうか、と記している。さもありなん。動機の真偽は考証家に任せアカショウビンは梅原氏の文章に共振する。

 氏は、『山椒大夫』の涙をさそう場面を三つあげる。ひとつは、人買いに騙されて売られる姉弟と母が二艘の舟で離ればなれになる場面。二つめは、山椒大夫に奴隷としてこき使われる安寿と厨子王が山椒大夫を騙し、安寿が厨子王を一人都へ向けて脱走させ安寿が入水する場面。三つめは、丹後の国守に出世した厨子王が、生き別れた母を佐渡で探し出す場面。再会を果たした母は盲目で、当時身分の低い人たちの仕事とされていた鳥追いをしていた。

 幼いときに母と死別して伯父夫婦のもとで育った氏は、このような物語を読むと涙をこらえきれない、と書く。その心情は多くの読者が共有することだろう。アカショウビンもそうだ。

 鷗外の作品を読んだのはずいぶん昔だ。『高瀬舟」は安楽死問題がマスコミで話題になったときに読み直した。クリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラーベイビー』という作品も安楽死をあつかった秀作で何度か観直した。安楽死問題はおく。梅原氏は『高瀬舟』について簡潔に要約しているのでそれを引かせて頂く。

 幼くして両親を亡くした兄弟が二人で助け合って暮らしていたが、病気で働けなくなり兄に迷惑をかけるのを心苦しく思った弟が喉を切って自害しようとしていたとき、弟からいわれるまま喉に刺さったカミソリを抜いたところ、弟が死んでしまったために罪人とされ、島流しになる兄、喜助の話である。喜助は、お上から二百文を与えられて島流しになった自分の境遇を甚だ大変ありがたく感じている。骨身を惜しんで働いても口を糊(のり)するのがやっとであったこれまでの人生を考えれば、二百文を元手に仕事ができるのが楽しいというのである。

 鷗外を読み直したのは、最近漱石ブームだそうで「へそ曲がりの」氏は鷗外を読んでいると書かれている。真意は別にあるのかもしれない。日本近代文学の二人の〝巨匠〟が二人とも小説が余技(漱石は職業作家になる前は教師であった)であったことを氏は特にこだわっているようにはみえないがその理由については研究者に任せるにしかず。われわれは作品を読みそれぞれが刺激され此の世を(仏教では娑婆世界と説くが)生きる意味を考える縁(よすが)になればいいと思う。生涯を哲学に関わってこられた氏が人生の晩年近くにそのような文学作品に刺激される。そのことにアカショウビンも強く共振するのである。

 三島由紀夫の命日も近い。巷では論客が喧しく三島論を喋々するであろう。死ぬ前に三島は鷗外を書きたいと述べていた。それは実現しなかったが、動機は梅原氏の鷗外を読みだした動機と幾らか交錯するかもしれない。それも研究者に任せアカショウビンは未読の史伝を読む機会を何とかもうけたいと思う。

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