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2016年10月 9日 (日)

菩薩道

 田辺元は『死の哲学』のなかでキリスト教も死の弁証法に立脚することを徹底することがないとして〝菩薩道〟について次のように記している。

 絶対無即愛を徹底的に実現せんとする立場であり、あくまで自己否定を媒介とし自制謙抑を通じてのみ、衆生済度の愛に生きんとするものであることは明白である。その特徴は今触れた如く、人間の至上存在としての仏となる可能性を具備しいわゆる仏性を保有しながら、しかもそれをそのままに実現せんとする自己満足を抑制して作仏を差控え、他の衆生を先に作仏せしめるためには自己の作仏を犠牲にし、遂にその極、直接には自己作仏の障礙となる如き、ふつうに悪といわれる行為をも、不可避とあらば、善悪を超える無心清浄の立場で方便として敢行し、死復活の絶対無即愛を、どこまでも自己否定自己制限の条件の下において媒介的に行うことにある。(同書 p387~p388)

 これは道元の自未得度先度他を引いたものであろう。正に大乗仏教哲学の真骨頂といってもよい。その具体性はともかく、田辺はハイデッガーの〝自覚存在論〟が観念論の域を脱しなかったと批判し仏教哲学を援用する。

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