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2016年10月 7日 (金)

ハイデッガーノート ⑥ 存在とは何か

 生の存在学か死の弁証法か、という表題で田辺元は戦後のハイデッガーの思索、思考を「生の存在学」と見なし自らの哲学を「死の弁証法」としてハイデッガーに対抗する。ハイデッガーの70歳記念で求められた論文で田辺は1922年から1年間の留学時には先輩とも師とも仰いだハイデッガーを同じ哲学徒として批判し乗り越えるべく異例の論文を寄稿した。特に『同一性と差異性』(理想社 昭和35年 大江精志郎訳)に収められたつの講演でハイデッガーが展開している最新の、ということはハイデッガーが到達した境地の内容について田辺は苛烈な批判の矢を放つ。両者とも先の大戦の敗戦国側の思想的支持者という負い目を背負いながらの戦後の人生、思索の成果である。それとは別に私たちは、その説くところを思想、哲学として精読しなければならない。田辺は戦後すぐに『懺悔道としての哲学』で自らの哲学を一貫させるべく著書を公刊している。『死の哲学』の基調低音はハイデッガーはじめ西洋哲学に対する禅の仏教哲学の、戦後の科学技術が主導する世界への修正の可能性への追求というべきものである。それは後に新たに熟考する機会もあるだろう。とりあえず批判されたハイデッガーの説くところを引用しておこう。

 さて存在とは何か?我々は存在をそれの始源的意味に従って現前存在(Anwesen)と考えよう。存在は人間にとって随伴的にも例外的にも現前に存在する(west・・・an)のではない。存在はそれの語りかけによって人間に関わる(an-geht)ゆえにのみ、現成し(west)且つ持続するのである。何故ならば人間こそ、存在に向かって明濶に、存在を現前存在として到来せしめるからである。そのような現前-存在(An-wesen)は、或る明るさの明濶さ(das Offene)を使用し、かくこの使用によって、人間本質に委ねられているのである。このことは決して存在が、初めてただ人間によって定立されることを意味しない。むしろそれに反して次のことが明らかになる。

 即ち人間と存在とは相互に委ね合っていること。それらは相互に合しあう。一層詳しくは考慮されていないところの相互に合しあうことにもとづいて、人間と存在とは、初めてかの諸本質規定―その諸規定において人間と存在とが哲学によって形而上学的に把握される―を受けとったのである。

 我々がすべてのことがらを、弁証法を用いるにしても用いないにしても、秩序や媒介によってのみ表象する限り、この主要な意義を有する人間と存在との結合(合には強調の読点)を、頑迷に誤認するのである。そうすると、存在からか或いは人間からか何れかによって結びつけられ、そして人間と存在との結合を編み合わせて表わすところの連結を、我々は相もかわらず見出すのである。  我々はなおいまだ結合(読点)の内へ帰入しない(kehren・・・ein)。しかし如何にしてかかる帰入が達成されるか?それは我々が表象する思考の態度から自らを離脱させることによってである。この自己離脱(Sichabsetzen)は、飛躍の意味におけるSatz[跳ぶこと]である。これは飛び去るのである、(springt  ab)云いかえれば知性的生物ーこれが近代には自らの諸客体に対する主体となったのであるーとしての人間についての普通の表象から飛びはなれる。しかも存在は西洋的思考の初期以来、各々の存在するものそのものが基づいている根拠として解釈されているのである。  若し飛び去ることが根拠から飛び去るとすれば、それは何処へ飛躍するのであるか?それは或る深淵へ飛躍するのであるか?その通りだ、我々が飛躍をただ表象する、つまり形而上学的思考の視野において表象する限りでは。しかし我々が飛躍しそして我々を解き放す限りでは、そうでない、では何処へ飛躍するのか?それは我々が既にはいり込こんだ所へ、即ち存在へ合することの内へである。しかし存在自らが我々に合するのである。というのはただ我々においてのみ、存在は存在として現成しうる、即ち現前-存在たりうるのである。(同書p17~p19)

 

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