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2016年9月12日 (月)

ハイデッガーノート ② 見る、観る、観照する

 観(blicken)という動詞について、ギリシア語のテアオマイには、「ギリシア的に思考すれば、おのれに観照をもたらすこと、観照を、つまり何かが呈示され、現れてくる眺めという意味でのテアー〔観照〕をもたらすことを言う」(p176)とハイデッガーは述べる。それは私たちが言う見ることでも、見物することでもなく、「観るものが、おのれの本質の眺めのうちへ現れてくる(ダイオー〔火ヲトモス〕)、つまり覆蔵されていないもののうちへ、この覆蔵されていないものとして出現する、そうした根本様式なのである」。

 この覆蔵という語は馴染みのない日本語だがハイデッガーでは重要な用語である。いっぽう真理という語は日常的にはともかくまだ理解できる。アレーテイアというギリシア語は真理と訳されるが、それは正確には不覆蔵で真実が覆い隠されていないこと、であるとハイデッガーは説く。それはこの講義録の前段で詳細に説明されるがいまはおく。引用に続けて次のようにハイデッガーは述べる。

 観ることは、人間の観ることでさえ、根源的に経験するならば、何かを把握することではなく、おのれを示すことであり、このおのれを示すことを顧慮してはじめて、何らかの把握する観ることが可能となるのである。人間は、すでにもっぱらおのれ自身から、観ることを経験しており、観ることをまったく、自我や主体である「おのれから」理解しているのだが、そうした場合には、観ることは、対象に向けられた一つの「主観的な」はたらきである。しかし、人間が、おのれ固有の観ることを、つまりこの場合人間の観照を、おのれへの「反省」においておのれを観ながら表象する、そうした観照として経験するのではなく、むしろ人間が反省を伴わない出会いをさせることにおいて、観照を、向こうからくる人間の、彼を‐眺めることとして経験するならば、その場合には、出会う人間の観照は、そのうちで人間自身が他のものに向かって待ち、つまり現れ、そして有る、そうした観照として示されるということが露呈されるのである。このむかえ待つという仕方の観ることが、またこのように経験された観照が、出会う人間自身をその本質の根拠において露現するのである。

 この露現という用語もハイデッガー独特だが、有が現れるというこれまたハイデッガー用語で取り合えず説明しておかせていただく。そしてハイデッガーはさらに続ける。

 私たち近代の人間は、もしくは更に言えばギリシア‐以降の人間形態はとうに歪曲されており、そのため彼らは、観ることをばもっぱら、有るものへと人間が表象しながら向かうこととして理解している。こうして、観ることはまったく見いだされず、たんに、自分で遂行した「はたらき」として、つまり前に‐立てる〔表象する〕作用として考えられるのである。前に‐立てる〔表象する〕とは、この場合、おのれの前に‐立てること、諸物をおのれの‐前に‐もたらすこと、制御すること、諸物を圧倒することである。(p177)

 これもハイデッガー哲学の根幹のようなもので難解だがプラトン思想が後にスコラ哲学、近代のドイツ哲学に至る間に変質、変容していった一端を説いているのである。さらにハイデッガーの説くところに耳傾けよう。

 ギリシア人たちは、観るということを最初にしかも本来的に、人間が他の有るものそれ自身とともに、しかも人間としておのれの本質において出現し、現前する、そうした仕方として経験している。(おのれから現前するまでは強調の読点が付されている:アカショウビン注)。近代的に思考して言うと、それゆえまた不十分であるのだが、むろん私たちにより分かりやすくするために、私たちは、手短にこう言うことができる。つまり観照、テアーは、「主体」のはたらきや作用としての観ることではなく、「客体」の出現や向こうからくることとしての眺めである、と。観ることとは、おのれを示すことであり、しかも、出会う人間の本質がそこに集まってきた、あのおのれを示すことなのであり、このおのれを示すことにおいて、出会う人間は、次の重複した二つの意味において「出現する」のである。つまりおのれの本質が、観照において、おのれの実存の総体と同じく集まっているという意味と、しかもおのれの本質のこうした集まりと単一な全体が、観照において開示されるという意味と、そうした重複した意味において「出現する」のである。それも、観照において開示されるといっても、もちろん、このように覆蔵されていないものにおいて、同時にまた、おのれの本質の覆蔵と深淵とを現前させることになるのである。

 この講義は1942年から43年の冬学期にフライブルク大学で行われた。戦時中である。それを今私たちが読むことは、その戦時下の緊張も想像すべきだろう。私たちは戦後のハイデッガーの論説、言説、講演にも目を通すことができる。その後のハイデッガーの軌跡、一生を通観しながら、それこそそれは読むことと同時に観ることでもある。それは正しく文字の向こうからハイデッガーが立ちあがるように、自らの精神を励起させて読み取らねばならない言説である。

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