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2016年9月17日 (土)

ハイデッガーノート ④ 開けた処 真理の本質

 つねに人間は、しかも人間だけが、自由な開けた場所という意味での開けた処を覗くのであり、こうした自由な開けた場所としての、「有る」は、そのつどあらゆる有るものを自由な開けた場所それ自身へ解放し、こうした解放によって人間を開けた処の番人をつとめるものとして眺めるのである。(「パルメニデス」p256)

 この箇所に至るまでにハイデッガーは「開けた処」を次のように強調(翻訳では読点が付されている)し説明している。

 この開けた処は、有それ自身である。

 その前には次のように。

 なぜならば、到る所でいつも、ごく目だたない有るもののごく近くですでに、有るものの「有る」を自由な開けた場所として特に思考することを可能にする、そうした開けた処が現成しており、この自由な開けた場所の開けのうちへ、覆蔵されていない有るものが現れるからである。あらゆる有るものが、おのれの自由な開けた場所へ解放されるように、そこへ解放される開けた処、この開けた処は、有それ自身である。

  この「人間を開けた処の番人をつとめるもの」という箇所には、ハイデッガーが「存在は言葉という家に棲む」という有名な比喩で示す有(存在)を講義や講演、著作のいたるところで言葉を尽くして説明しようとする別な言いまわしがある。そこでは田辺元がこの講義に読み取ったハイデッガーの弁証法的境地を示すと田辺が説くなかでのキーワードともなる「絶対無」の無へのハイデッガーの次のような説明もある。

 もし人間が有を観照していないとしたならば、人間はけっして無を思考しえないであろうし、まして有るものを経験しえないであろう。(同書 p248)

もう少しハイデッガーの説くところに耳と精神を集中させてみよう。

 元初的に真理の本質が「非覆蔵性」(ア‐レーテイア)であるからこそ、また覆蔵されているもののうちでアレーテイアがすでに、開けた処、開けてくる処であるからこそ開けとそれの透過一般が、明るさやそれの透き通りの明け開けという形態において現れることができるのである。有の本質がアレーテイアであるからこそ、それだけで明るみの明け開けが優位になることができるのである。それゆえ、開けた処へ出現することは、輝き、現れるという性格をもつようになる。それゆえ、出現して覆蔵されていないものを聞き取ることは、明るく輝くものを聞き取ること、つまり見ること、観ることなのである。(p249)

 真理の本質については、アレーテイアというギリシア語を介してハイデッガーは1931年1932年の冬学期に詳細に論じている。それは通読したので新たに感想を書く機会もあるだろう。

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