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2016年9月18日 (日)

ハイデッガーノート ⑤ 真理とは何か?

 「真理の本質について」でハイデッガーはプラトンの〝洞窟の比喩〟を用いて真理の本質について講義した。それから10年後の講義が「パルメニデス」である。それは戦時下でもあり世界大戦という地球規模の災禍の緊張の中でのものであることを考慮し読む必要もある。古代ギリシア人たちの思想に分け入りローマ人達への思想の移植と変容を経てデカルト・カントの西洋近代哲学の変遷に注意深く眼を凝らした思索者の言説・論説は卓抜であると同時に奇異の感も与えたことは衆目の伝えるところである。「パルメニデス」の第8節/第2部ではリルケの詩が引かれる。第8のドゥイノの悲歌にはハイデッガーが説く〝開かれた処〟の一行が記されている。しかしそれは〝公海〟という意味でのもので、それは「有の自由な開けた場所へは到達しない」(p258)とする。生きものは、その場所を見る事がない。しかし「それを観いだすことができるということが、人間の本質を構成し、したがってまた、動物と人間との乗り越えられない境界を構成するのである(同)。

 ドゥイノの悲歌は最初の次の部分が引かれている。

 すべての目で、生きるものたちは

 開けた処[開かれた世界]を見ている。われわれ人間の眼だけが

 いわば反対の方向をさしている。そして罠として、生きものたちを、

 かれらの自由な出口のそとにあるものをわれらは

 動物のおももちから知るばかりだ、

 しかし「人間は、そして人間だけが、語を持つゆえに、開けた処をのぞきこみ、アレーテス[真ナルモノ]という意味での開けた処を見る、そうした有るものなのである。これに反して動物は、開けた処をまったく見ないし、そのすべての眼のうちの一つだけででも、決して見ないのである。(中略)リルケのいう開けた処は、覆蔵されていないものという意味での開けた処ではないからである。リルケは、アレーテイアについて何も知らないし、気づいてもいない。彼がほとんど何も知らず、気づいてもいないのはニーチェも同様である。したがってリルケはまったく、伝承されてきた人間と動物についての形而上学的規定の限界内にとどまりつづける。(p264)

 真理とは何か?という問いを次のように変えてハイデッガーは回答する。

 どのような拘束が詩人の語につきまとっているのか?この問いは、次の本質的な問いに基づいている、どのような真理が、詩そのものに属しているのか?たんに個人的な体験や印象に拠り所を求めること、つまり詩人に対してとにかく現にいだいている愛好心を、詩人の語を妥当だとする最後の支えとして持ち出すようなこと、こうしたことはすべて、あまりにも足りなすぎる、つまりここでは、まったく取るに足りないのである。それも、民族の存亡に決着がつくだけではなく、何よりもまず有と非有そのものの本質と真理が賭けられている、そうした時代にあっては、そうなのである。そうであれば、リルケの詩を途方に暮れた詩人の主観的な「体験」にゆだねる代わりに、キリスト教的意識の伝承のうちへはめ込むことは、いっそう客観的であるだけに、いっそう重要であることに変わりはないであろう。(p268~p269)

 「民族の存亡」という語に戦時下のハイデッガーの危機感が漏れ出ているとも読めよう。しかし主題は「有と時(存在と時間)」以来、有であり時であることは言うまでもない。

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