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2016年5月22日 (日)

書評と演奏会レポート

 本日の東京新聞の書評欄に興味深い記事が掲載されていた。古橋信孝氏の「全南島論」(吉本隆明著 作品社)の書評。戦中派の吉本が戦後に活動を開始した途上から最後までの論考をまとめたものと思われる。アカショウビンが学生の頃に吉本の論考の中で特に関心をもったものに親鸞論と南島論がある。そのうち南島論についてはアカショウビンの故郷で戦後も暮したことのある島尾敏雄の小説作品、エッセイから発展したヤポネシア論が実に興味深かった。吉本の南島論も島尾の論考に触発、啓発されたものとして読んだ。吉本の場合には古典への踏み込み方が深く、それは折口信夫の研究をも視野に収めたもので吉本の思考の踏み込みが興味深々だった。その後も吉本は自らの南島論に考察を深めていたのだろう。その全部をアカショウビンは読んでいるわけではない。しかし両者の南島論は日本列島を広く見はるかす学者にはない独特の視角が面白かった。

 古橋氏は古典の優れた読み手である。「国家以前の共同体の歴史」という見出しで著作の感想を書いておられる。「吉本は(中略)国家に克つには国家以前の共同体を対置する以外ないと考え、『南島論』を書いたのだ」。「兄弟姉妹の関係のオナリ神信仰は家族の最も基層のものであり、その関係を基軸として親族が成立し、親族と家族の矛盾があらわれたとき、共同体が登場する。(段落)吉本は沖縄をたんに古層として掘り起こすだけでなく、歴史として位置づけているのだ。古層志向も結局現代を反対側から支える意味をもたされ、消費されてしまう。そこから逃れるにはこの歴史と全体知が唯一の方法ではないか。吉本は『南島論』の先に『アジア的段階』、『アフリカ的段階』という歴史を考えるようになっていった」として、氏は「現代の知の根源からの再考を迫ってくる」と結んでいる。「アフリカ的段階」は吉本が生きているときにアカショウビンも読んだ。吉本はそこで従来のヘーゲル哲学神話の一部を明確に批判した。しかしヘーゲルがまだ巨大な権威であるのは洋の東西を問わないだろう。それは後に続く者たちが新たな思想、哲学で乗り越えなければならない巨峰といえる。それはともかく、「全南島論」を通読してから感想を書いていきたい。

 南島論については村井紀氏の「新版 南島イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義」(岩波現代文庫 2004年5月18日)もかつて興味深く読んだ。ご関心のある方は一読をお奨めする。

 演奏会レポートは月刊誌に掲載された村上春樹氏のベルリンでの小澤征爾氏のベルリン・フィル指揮コンサートの報告である。それは小澤氏(以下、敬称は略させて頂く)を良く知る作家の文章として興味深く読んだ。選曲はモーツァルトの「グランパルティータ」、ベートーヴェンのエグモント序曲、合唱幻想曲。クラシック音楽ファンなら、この選曲を見てナルホドと思われる方もいらしゃるだろう。「合唱幻想曲」はたしか昨年、松本でマルタ・アルゲリッチがピアノを弾いて小澤が指揮したのをアカショウビンは友人が送ってくれた録画で見た。それは村上も書いているようになかなかの名演だった。今回はそのアルゲリッチが予定がつかず小澤の発案でピーター・ゼルキンが起用されたらしい。しかし、彼が不調でアルゲリッチの名演のようにはいかなかったことを村上は伝えている。しかしエグモントは熱狂的な歓呼で絶賛されたという。モーツァルトは指揮者なし。小澤の体調を考えればそれもやむなしということだろう。村上はベルリン・フィルの奏者たちに不満も述べていた。

 ベルリンの聴衆の感想として村上が伝えていたのはベルリン・フィルがカラヤン時代の響きを再現したというものだ。これにはアカショウビンは異論がある。小澤をカラヤンは確かに弟子と見ていた。それは小澤自身が話している。しかし小澤の師匠は齋藤秀雄である。指揮技術と音楽界での処世術はカラヤンが伝授したのかもしれない。小澤とカラヤンの演奏は似て非なるものというのがアカショウビンの考えだ。それは無味乾燥なカラヤンの演奏に対し小澤には情がある血の通った演奏であることからわかる。

 確かに指揮者などいなくてもベルリン・フィルやウィーン・フィルは勝手に自分たちの音楽が奏せるオーケストラだ。しかしオーケストラには指揮者という統率者がいるのも事実。器量の差はあれだ。カラヤン時代とは楽員も様変わりしたことだろう。カラヤン亡き後アバド、現在のラトルと代わり、それぞれの色が付けられている。その有数のオーケストラをドライブするには計り知れない実力が必要だ。それをもっともよく知っているのはベルリン・フィルの楽員と小澤自身だ。それは素人が入り込み、知る境地ではない。しかし、そこで何事かのコミュニケーションが交わされる。それはプロ同士の将棋や囲碁のタイトル戦の世界と似ているかもしれない。将棋も囲碁もパソコンソフトが一線級のプロを負かす時代だ。しかしオーケストラは人間たちが奏でるところに幾重にも味わいと深みが生じる。コンピューターには踏み込める世界とも思えない。もちろん異論がるのは承知のうえだ。しかし、かつて小澤が村上との対談で話していたコンピューター音楽への痛烈な批判はアカショウビンも同意するところだ。しかし生演奏に接する機会の少ないアカショウビンはCDやレコードで昔の演奏を繰り返し聴いて楽しむのが日常だ。これについてはどうか。それはアカショウビンも忸怩たる思いにかられるのだが、つまらない生演奏を聴かされるより往年の名盤を何十年かぶりで聴く楽しみもありなのだ。名演なんてそうそうあるものではない。しかし先日聴いた新日本フィルを指揮した準・メルクルの「ダフネスとクロエ」(ラベル作曲)は何とも素晴らしい名演だった。転居で持ち込んだレコードも少しずつ聴いている。それは音は悪くとも往年の名演だ。繰り返し聴いて厭きない。

 本日はこれまでもあまり聴くことがなかったベートーヴェンの「合唱幻想曲」のCDを注文してきた。その感想は後日。

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