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2016年5月24日 (火)

つかの間の新しい環境でウィンナ・ワルツ

 引っ越しで時に鬱になることも。というより数日鬱である。それをいなすのは人それぞれ。アカショウビンの場合は音楽が抜群の効果あり。今朝は捨てられないレコードの中から古いモノラル録音のレコードを衝動的に聴く。録音年代不詳。クレメンス・クラウスがウィーン・フィルを振ったシュトラウス・ファミリー・コンサート第2集。音は悪い。というよりプレーヤーのセッティングが最良でない。家屋自体が傾いているのだろう。何度かの引っ越しで水準器が紛失している。レコード針も間に合わせ。針圧も正確でない。しかし音は出るのだ。一応は聴けるのである。鑑賞できる。

 久しぶりに聴くので曲目を記しておこう。

 ①喜歌劇「ジプシー男爵」―序曲②ポルカ「狩り」作品373③ワルツ「わが家で」作品361④ピチカート・ポルカ(ヨゼフの合作)⑤ポルカ「クラップフェンの森で」作品336

 これから2面。⑥ワルツ「春の声」作品410⑦ポルカ「観光列車」作品410⑧ワルツ「ウィーンの森の物語」作品325⑨「常動曲」作品257

 ライナー・ノートは無署名。シリーズ物だから最初のレコードには記載されているのかもしれない。指揮者の生涯が記されている。ヨハン・シュトラウスⅡ世は1899年6月3日没。世界中から弔電が届き盛大な葬儀だったという。指揮者はそのとき6歳。音楽家の多い家系で8歳のときにウィーン少年合唱団に入っている。ウィーン音楽院を19歳で卒業してから歌劇場で指揮者、副指揮者を歴任。1922年、ウィーン国立歌劇場の副指揮者に就任している。1929年に歌劇場監督、1931年にウィーン・フィルの常任指揮者に。ところが1934年にウィーン・フィルの管理委員会と意見が合わず退任している。これは戦後ナチと弾劾された原因の一端が絡んでいるようにも思える。それはフルトヴェングラーと同じく戦後まで故国に留まったことからも推察できる。もちろんフルトヴェングラーはナチと対決もしたわけだが。現在のウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートの第一回は1945年、クラウスが指揮している。以後は外国への演奏旅行も多かったという。その途上で1954年メキシコ・シティで客演指揮中に心臓麻痺で倒れ5月16日61歳で亡くなった。

「春の声」には面白いエピソードが紹介されている。1883年2月、喜歌劇<愉快な戦争>を指揮するためハンガリーの首都ブタペストに滞在していたヨハン・シュトラウスは、ある晩餐会でフランツ・リストと同席した。このときシュトラウス57歳、老巨匠71歳。晩餐が終わり余興にリストが女主人と四手のピアノ曲を弾くと、その旋律に耳を澄ませていたシュトラウスは間もなく即興曲を作って披露した。これが後に作詞され当時の名ソプラノが歌い人気を集めたらしい。ベートーヴェンやシューベルト、モーツァルトが生きていた当時のウィーンもそうだったろう。

 このように大雑把に生涯を辿ると戦前からの戦後の歴史の一端が垣間見える。戦前の激動のヨーロッパで音楽を生業とし政治的な動きにも巻き込まれ立ちまわった筈だ。奇しくもフルトヴェングラーも同年に亡くなっている。シュトルム・ウント・ドランク。それ以降、音楽界も変わりながら変わらないものもある。クラシック音楽は絶滅危惧種と揶揄されながらもアカショウビンもつかの間の音楽を楽しめている。その幸いを大切にしよう。

 クラウスやフルトヴェングラーがヨーロッパで経験した戦前・戦中・戦後の激動は日本でも同じだ。戦争の災禍は所を変え世界中で起きている。それを超える災禍が起きる事を予測することはやさしい。しかし人間が生き延びる細い道は常に模索され不可思議に見出される。

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