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2016年3月11日 (金)

労働歌あるいは覚悟

 朝のアルバイトの作業を始めてから二週間、今週の初めは雨になり傘をさして30分強の道のりを自転車でクリーニング工場まで辿り着いた。きのうは手術前から痺れで思うようにならない左腕の手の甲に作業中に激痛が走った。しかし作業を止めるわけにはいかない。動きをゆっくりし痛みを逸らした。そのような作業の単純さを凌ぐには歌である。それは労働歌といってもよい。北海道のニシン漁で漁師たちが歌うソーラン節もそうである。日々の労働に歌が生起する、湧き起こる。それが単純作業のマンネリに何かの力となって心身を活性化させるのだ。

 そのような日常で時に鬱のようなものが心身を浸す。それはいつか来る死への覚悟といってもよい。それは不安とも心の沈みともなって我が身を支配する。それから逃れるためには声や音楽、人びとの話声が必要だ。それは恐らく五年前の津波に押し寄せられた土地に棲む人々が経験したものたちだろう。声とは何か。音楽とは何か。話声とは何か。

 記憶は甦る。その切っ掛けは瞬時に生じる。時にそれは持続しない。しかし、緩やかにそれは痛みを伴い甦る。それは日常に亀裂を生じさせる。津波を経験しなかったアカショウビンには昨年の手術前後の非日常を想い起こすことである。それはこの二週間の日常で記憶として立ち上げる心身の作業でもある。そこに覚悟が生じなければならない。

 アカショウビンの労働歌は北原ミレイの『石狩挽歌』である。「ゴメ(海猫)が鳴くからニシンが来たとー、赤い筒っぽのヤンシュが騒ぐ」と歌いだす声の力はアカショウビンが生きた時の中に津波のような力のエネルギーとなって記憶を甦らせる。若い頃に三畳の下宿で聴いた歌い手の声は現在の日常の作業のつらさを凌ぐ存在のあるいは有の声となって湧き起こるのだ。

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