« 労働歌あるいは覚悟 | トップページ | ロマンと浪漫 »

2016年3月17日 (木)

生きる糧

 先日、都内の病院で術後半年の胃カメラ検査の結果判明した下咽頭癌の推定を主治医が紹介してくれた消化器内科の医師の診断として聞いた。前回の診断書では≪右下咽頭側壁~梨状陥凹にかけて通常観察で発赤調、NBIで境界明瞭なbrownish areaとして認識される病変を認める。中心部には白苔付着を伴うびらんを認める。上皮下浸潤を伴う下咽頭癌の所見と考える≫とある。「画像の奥の部分がわからない。ガンの大きさで治療方法が変わってくる。もう一度、内視鏡で見てみたい」と、テキパキとした話し方で若いE女医は説明した。二人で画像を見ながら、「これは胃ガンの転移ですか」という私の質問に、きっぱりと「違います」と。「しかし、この画像でガンと判断できるのですか」という疑問には「これは私の専門領域ですから」と突き放すように。それでも胃ガンの時の治療チームの一部の医師に見られた冷たさはない。むしろ或る種の女性に見られる母性によるものとも思われる凛とした知性のような気持ちの明るさを含む表情で。

 夜には時に茫々とした不安のようなものに襲われ眠られなくなる。先日もそんな精神状態に堕ちこんだ。衝動的にCDをヘッドフォンで聴いた。なかなかよい。シューマンのピアノ・トリオである。先日のブログで紹介した〝幻のリサイタル〟となったピアニスト、メナヘム・プレスラーらが長年にわたり演奏活動を続けたボザール・トリオの1971年の録音である。その2番のヘ長調が気鬱を跳ね返す激しさでアカショウビンの精神をその世界に惹き込んだ。それは現実の時に嵐の如きものだった。しばし気鬱の重苦しさの縛りが解かれた思いだった。ハイドンの端正さとは趣きを異にするシューマンの情動が別の世界に誘いこんでくれたともいえる。

 シューマンは交響曲と幾つかの歌曲集は若い頃から聴き続けてきている。ところが室内楽を集中して聴きだしたのはこの十数年だ。音楽史ではロマン派に属されるシューマンの生涯は突然の自殺で断たれた。その作品は激しい感情と情熱に満たされている。還暦を過ぎて音楽の好みも変わってくるのだろう。それはそれで楽しみは増えるのは悦ばしいかぎり。ロマンとは浪漫である。東西で実情は事なれど時代精神は疾風怒涛のように世の若者たちの精神を揺さぶる。その詳細を辿りたいが残り時間は少ない。

 本日はハローワークで紹介された団体の現場へ面接に。早めに着いたので、しばし周辺を散策する。仕事のないオッチャンたちがたむろしている。そうか山谷か、と納得。平日の午後の路上に殺気のようなものもない。ネクタイにブレザー姿の男は怪しげなのだろうがそれほどの警戒心も見せない。もちろん暗黙の会話が交わされているのだろうが。狭い道の向こうにはスカイツリーも見える。どこにでもある長閑な街の風景だ。しばらく歩くとアーケード街に。その天井近くには垂れ幕というのか「あしたのジョーのふるさと」と大書され、ちばてつやの漫画のキャラクターたちがゆらゆらと春の温かな空気に揺れている。そうか、ここがモデルの街だったのだ。かつて連載中に熱中した漫画の舞台に何と数十年ぶりに遭遇したというわけだ。台東区日本堤一丁目。シャッター街の様子はどこの地方都市とも変わらぬ風情だ。

 開店している店は作業衣や飯屋。煮込み200円、ライス100円、おかゆ120円。そこに聞こえるバッハの作品のピアノ演奏と誰かの管弦楽曲。聴き覚えのある曲と思えばブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」だ。寂れたアーケード街に名曲がうらがなしく流れる。その寂寥感とも思われる時空は正しくアカショウビンの心と共振している。酔っ払いの初老の男がだらしなく腰を落とし、足を投げ出し、ロレツの回らない大声を発し、携帯電話で仕事の話をしている。それが唯一、かつての〝山谷〟の面影を残しているように思えた。

 面接の時間がきてその建物へ。地下の部屋に案内された。担当者は生真面目そうな50代の男。履歴書を見ながら、これまでの人たちと異なりあまり突っ込んだ質問はしてこない。ただアカショウビンの出身地にだけは関心があるらしく多言を費やした。聞けばその事務所にも同じ市の男や故郷の島の人がいたことがあるらしい。

 面接を終え駅までゆっくり歩いた。彼方の空をジェット旅客機が短い飛行機雲を引いて飛んでいる。かつてのドヤ街は拍子抜けのする静けさで佇んでいる。果たして職にはありつけるのだろうか。シューマンのピアノ・トリオはともかく、生活の糧は現金収入である。記憶の彼方で岡林信康のレコードジャケットが浮かび上がった。ジーンズをはいた髯面の岡林が目線を下に歩いている。しかし「山谷ブルース」は聞こえなかった。

|

« 労働歌あるいは覚悟 | トップページ | ロマンと浪漫 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/63359410

この記事へのトラックバック一覧です: 生きる糧:

« 労働歌あるいは覚悟 | トップページ | ロマンと浪漫 »