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2016年2月25日 (木)

フェルメールを観に

  都内で用事があり、ついでに六本木の美術館で開かれている「フェルメールとレンブラント展」を見に東京駅から六本木まで行く。目玉はフェルメールとレンブラントだが、フェルメールの「水差しをもつ女」は、かつて見た「牛乳を注ぐ女」ほどの強烈な印象は受けなかった。女のスカートの〝フェルメール・ブルー〟が保存状態が悪いのではないかと思われるくらい全体の画調がくすんでいる。これまでに観た作品のなかでは画集との差が殆どないものとして期待を裏切られたというのが正直な感想だ。それに比べればレンブラントの「ベローナ」(1633年)は実物に正面しなければ体験できない強い印象を与える。それはフェルメールの「牛乳を注ぐ女」を観た時の印象にちかいものだった。もっとも「水差しを持つ女」は他作品ほどに修復が進んでいないことによるものなのかもしれない。それは修復者たちの技量にもよるだろう。

   今回の展示の面白さは二人の画家より彼らと同時代の他の画家たちの優れた作品に出会えたことだ。それはこれまで何度か他の展示会でも見た作品だが、当時のオランダ絵画の隆盛をまざまざと示す傑作、佳作、秀作が展示されている。今回のテーマは〝フェルメールの光とレンブラントの闇〟というものだが、そんな単純なものでないことは会場をまわれば納得する。サブテーマの〝オランダ絵画黄金期の巨匠たち〟の秀作、佳作、傑作が展示されているからだ。それは両者の2点の作品に拮抗する完成度を示している。

 ピーテル・デ・ホーホの「女性と召使のいる中庭」(1660‐1661年頃)は、フェルメール作品にも映描かれているデルフトの街中の家屋の庭で家事の材料の魚を扱う風景だが、その時が止ったような人が生きている生活感のようなものは共通している。それは後ろ向きの女主人の黒の服装に見て取られる。その黒と白の対比はフェルメール作品にもある。それは優れたモノクロームの映画作品にも看取できるものだ。アカショウビンは、その作品を観ていると、その時が止って描かれている作品の時空間と、それに正面している自らの存在に空恐ろしさを感じた。それは恐らく自らの日常の不安定の精神状態によるものなのだろう。それは言ってみれば芸術作品に出会う時の特有の場の力とでもいうものなのだろうが、それは改めて考察してみたい。

 会場は都心とはいえ上野など交通の便のよいところでないせいもあるのだろう。それほど混雑もなく、じっくり観られたのは幸いだった。

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