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2016年2月23日 (火)

懺悔道の独創性

 田辺元の『懺悔道の哲学』(2010年 岩波文庫)の第3章は〝絶対批判と歴史性との連関〟とタイトルされている。その白眉はハイデガー評価と批判、ニーチェ評価と批判である。その後半はニーチェ哲学の独創と限界を田辺は自らの親鸞の『教行信証』読解によって説く。それは田辺の面目躍如というものである。それは西洋哲学を学び批判する面白さと言ってよい。冒頭に田辺は自らの哲学とした〝懺悔道〟について次のように説明していることは注意しよう。

 普通に懺悔と言えば過去の所行に対する後悔とそれに伴う無力感、つまり無力の意識から来る感情の消極的な―昂揚とは反対の―委縮・沈滞を意味する。かかる消極的な懺悔(Repentance)に関してカトリックはこれを徳とするも、スピノザは二重の無力と言う。過去に対する無力と現在において活動性を失う故の無力として二重の無力であり、従って美徳ではないと述べて居る。スピノザが二重の無力と極印を押した懺悔と私の懺悔とは相異なる。(同書p11)

 そして自らの懺悔道哲学を「無力の徹底が有力に転ぜしめられる、あるいは自己の放棄がかえって自己の存在を与えられると言う転換を意味することに注意して頂き度い」(同書p13)と述べる。

 自力でなく絶対他力が自力を媒介して能動的に達せられるところに妙機を見る。その論理は難解であるものの面白い。アカショウビンは併せてハイデガーのの『真理の本質について』(細川亮一訳 創文社 1995年)を読みながらハイデガーと田辺を介して時に日常の無力感を脱する機会を得るのである。

 

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