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2016年2月 9日 (火)

音を奏で、出す

 早朝の音楽はミカラ・ペトリのリコーダー・リサイタルを衛星放送で楽しむ。これは以前に観たものの再放送。独奏と夫とのリュート、ギターのデュオは何とも心安らぐ。大小幾つかの楽器を使い分けての演奏は悦楽、楡楽の如し。デンマーク民謡を元に自ら作曲した作品では小さなリコーダーがバグパイプのような音も出したのには驚いた。変幻自在とはこういうことだろう。リコーダーは口を通して喉の震えも音にできる。それは尺八もジャズ・トランペットも同じだ。マイルス・デイビスの音も然り。それは吹奏楽器の得意とするところである。

 それとは異なる楽器が打楽器。和太鼓やジャズのドラムス、クラシックのティンパニーは叩くことで様々な音を出す。そこには何かを伝えるメッセージも含まれている。先日、『尼僧物語』(1957~1959年 フレッド・ジンネマン監督)をレンタルDVDで観た。好きな監督なのである。『真昼の決闘』(1951年)、『地上より永遠に』(1953年)、『ジュリア』(1976年)の名作は何度観ても新たな発見がある。『尼僧物語』は実際の尼僧の体験を映画化したもの。オードリー・ヘップバーンが見事に主役を演じている。その匂うような気品は自らの演技への精進と監督の演出の手柄である。149分の長尺。多少の冗長さはある。特に前半部の修道院の場面はエンターテイメントを期待する観客には退屈にもなるだろう。しかし一人の尼僧の生涯を描くときに、そのシーンは不可欠なのだ。それは厳格な仕来たりで生活する過酷さを伝えなければならないからだ。そこを凝視しなければ原作と作品の意図するところは掴めない。アカショウビンは劇場公開とは異なるDVDのおかげで何度か繰り返し観てその理由を納得した。その感想は後に記すこともあるだろう。

 それはさておき、ここではその後半部のアフリカ・コンゴ(後のザイール)のシーンに刺激された。土地の人々が太鼓の音で来客(オードリー)の訪問を音で伝えるというシーンだ。それはオードリーたちの文明国のヨーロッパ人からすれば奇矯と感ずるものかもしれない。しかしアフリカを発祥の地とするジャズの音の起源はそこにある。ジャズのドラムスの面白さの淵源はそこだ。それはアカショウビンが敬愛するデューク・エリントンのピアノにも聴きとれる。デュークのピアノは叩きつけるような奏法である。それは叩くというより弾く。そこにはオーケストラでは伝えられない一人のピアニストの意志を聴きとる。そのような経験は楽器それぞれが持つ人間精神の響きを伝えるものといってもよいだろう。

 アカショウビンが小学校のときに最初に音を出し愉しんだのはカスタネットとトライアングル、木魚だった(笑)。小学校とはいえ小さなオーケストラがあった。音楽に熱心な先生がいて、〝さざなみバンド〟という名称だったがヴァイオリン、チェロ、木琴、鉄琴も揃えていたから小さなオーケストラと言ってもよいだろう。アカショウビンはそこでチェロを弾いたのが自慢だった。しかし日常的に音を出して楽しんだのはリコーダー。それでついた渾名が〝笛吹き童子〟。それはともかくリコーダーという楽器にはそれで愛着があるのだ。

 ミカラはバッハも奏した。そこにはヨーロッパで連綿と続く伝統の音楽が聴き取られる。アカショウビンも不眠の夜はハンス・ブリュッヘンがリコーダーで奏でるバッハの無伴奏チェロ組曲のリコーダー演奏を寝入りの音楽とすることがある。昨夜は1時間くらい眠っただけで眼が覚めた。あれこれ黙想していると眠られなくなり衛星放送を見るまで雑事にかまけた。そしてミカラのリサイタルの再放送に遭遇したのだ。

 リサイタルのあとブルックナーのアベ・マリアを放送した。敬虔なカトリック教徒だったブルックナーは9つの交響曲が有名だがこのような合唱曲にも交響曲に聴ける響きがある。ブルックナーがオルガンの響きに魅了された場所は、以前は聖フローリアン教会と記されていたのではなかったか。正確には修道院である。そこでかつて朝比奈隆は大阪フィルとブルックナーの第7交響曲を指揮した。アカショウビンはレコードでそれを繰り返し聴いた。テレビで修道院の中が見られたのは幸いだった。それは『尼僧物語』でオードリーが演じた尼僧たちが修行する修道院という空間である。それは禅寺の空間とも共通している。それはヨーロッパの修道僧が鈴木大拙に伝えたメッセージである。『尼僧物語』の映像はそのような連想を惹起した。

 ところで先日、若い友人のお誘いで都内の劇場で大衆演劇を観て来た。映画と異なり生の舞台はアドリブが楽しい。しかしその音響の悪さには辟易した。音響技術の進歩はアカショウビンは自ら体験している。デジタル音響がアナログを超えていないことは科学的に証明されている。それが現在の日本人も外国でもデジタル音響の欺瞞に騙されているのではないか。それはまた別の話だが。

 それともうひとつ。『尼僧物語』で描写されている宣教師たちは撮影終了後に起きた革命で地元民たちによって殺された。それは『フレッド・ジンネマン自伝』(北島明弘訳・1993年・キネマ旬報社 p264~265)に説明されている。それは異なる文化の融合がいかに至難なことかという現実の突き付ける事実である。それは戦争を介した日本と諸外国との歴史の事実でもある。オードリーの後半生の巡礼者のような生き方はこの作品が一つの契機となっていることを推察させる。アフリカでの文明の衝突は現在も中東でも続いている。それを乗り越えるのは何か。そのような沈思にも赴かされたことは付け加えておこう。

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