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2016年2月29日 (月)

労働の本質とは何か

 本日から午前中のアルバイトの仕事始め。朝の7時半30分からの開始に自転車で30分かけて行く。30分間のペダルを踏み続けるのは用水路の景色を眺めながら楽しくもあるが疲れもひとしお。いい運動ではある。先週、2回見習いをしているが4時間のフルタイムではない。本日が初めてのフルタイム作業である。先輩諸氏がやさしく教えてくれてありがたい。主任のような人も親切。しかし業務用のクリーニング会社の仕事は中高年にはきつい労働である。しかし慣れがそれを凌いでくれるのだろう。皆さんスイスイと作業をこなしておられる。アカショウビンも見よう見真似でそれを覚えていくしかない。普段使わない手首や全身を使いながらそれを学んでいく。作業しながら身体に叩きこんでいくのだ。

 何と、仕事に出かけるのは、昨年3月末での退職以来。それ以降は求職活動をしながら失業保険、友人たちからの借金、年金で凌いだ。その後、胃ガンが発覚、市立病院に7月から2週間の検査入院、都内の病院でセカンド・オピニオンのあと手術のために入院・手術と目まぐるしい時を過ごした。予定より一月以上長引いた入院期間は点滴を抱えながらトイレに行くのもひと仕事。不眠の夜は睡眠剤でしのぐ。一日6度の食事は、あげ膳、据え膳の毎日。時間は余るほどある。その間はコンビニで新聞を買い、持参した未読の本やCDを聴いて過ごした。

  昨年10月末に退院してからはサラリーマン時代の時間の推移とはまるで異なる時が流れる。現在もサラリーマン時代とは時の流れが違う。それはまた人が新たな時間の中で生存、現存する在り方を経験することである。それに慣れるには、それなりの工夫が必要だ。満員電車に揺られて前日の酒席のアルコールが残るなかウトウトしながらの通勤時間は今から見れば映画サラリーマン・シリーズの主役、植木等に言わせれば、ゴクロウサン!である。

 サラリーマン時代の仕事と現在の現場での仕事を比べれば、労働とは何か?労働の本質とは何か?といった問いが生じる。ハイデガー流に言えば、新たな問いが生起する。マルクスやヘーゲルの西洋哲学に竿差した労働観がある。ハイデガーは初期マルクスを〝貧しさ〟という概念で思考した。ヘーゲルも主著で取りあげ、その後の講義で詳細に読解、批判を継続している。戦後の冷戦時にもハイデガー独自の世界観が実に面白い。その観点は今の時代まで持ち越されている難問である。

 それらは観念上の論議、理論である。アカショウビンの現在は自らの労働環境の変化の体験を通して労働とは何かという問いに体験を介して思考をめぐらすことである。そのなかでハイデガーの『真理の本質とは何か』という講義録も読み続けて面白い。作業のひとつひとつ、工場内の設備、そこで働く中高年者たちの姿は論説家、理論家たちの仕事を介して生の現場、生の労働を体験することである。その過程をハイデガーは西洋史での真理をギリシアに遡り詳細・緻密に分析する。それが別の観点から一々、的確に対応していることに驚き感嘆する。通読しさらに労働の本質について得たところを報告したい。

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