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2016年2月26日 (金)

田辺 元の哲学

 『懺悔道としての哲学』第4章の〝懺悔道と自由論との比較〟では、シェリング哲学を高く評価し、自らの哲学との違いを論ずる。それは現在までどのように研究者たちに考量されているのかアカショウビンには詳らかでない。しかし田辺の戦後の思索と自らの西洋哲学の学究者としての力量は、この著作のなかで見事に如何なく発揮されている。それは田辺が評価し批判したハイデガーの哲学思想と併せ読み痛感するところだ。シェリングについてはハイデガーも講義録が残っており他の論考でもカントからシェリングに引き継がれて思索、対決されている論点は根源悪という論点だ。それはカントやスピノザ、キルケゴールらのキリスト教神学思想に対抗して思索されたたものとして現在まで我が国でも欧米でも継続されている論点と思われる。それを新たに考察することで現在に生きる我々の存在の立ち位置が問われる。それは次のような田辺の論説にも読みとられる。

 シェリングの歴史哲学は、ヘーゲルの歴史哲学がその理性主義の同一性傾向の故に唯物論に顚落し、現代におけるそれの復興に際してはまずこの点の修正を受けなければならず、実践行為の超理性的媒介の立場はその要求に促されて出現したものであるという事情の下において、正に同じ要求に応ずる既存の体系として重要視せられ、その価値が見直されつつあるものなること顕著なる事実である。(同書p234)

 それは田辺やハイデガーの講義録を再読、再々読しさらに考えていかねばならない。

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