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2016年2月18日 (木)

此の世との別れの在り方

 一昨年の夏に公開された河瀨直美監督の新作「2つ目の窓」をレンタルDVDで観直した。監督が自負する最高傑作と言うのは宣伝用の大風呂敷のようにも思った感想は観直しても同じだ。とはいえ、監督の入魂の作品であることは充分に伝わる。特にヒロインの母親が死に至る過程の奄美の土俗の描きかたに監督の思い入れが集約されている。聞けば監督のルーツが奄美という。主役の二人の演技の稚拙はともかく、監督の演出は細部まで丹念にされているものの十分ではない。何事も完璧というのは稀有のことなのだ。しかし、作品に込める気迫はこの作品に通底している。それは人間が生きて死ぬ生き物であることへの作家魂とでもいうものである。

 物語は少年、少女の恋愛譚を基調に奄美の土俗を介して人の死が執拗に描かれる。少女の母は病で死に瀕している。母のイサ(松田美由紀)は病院で死にたくないと自宅に戻る。病状は日々悪くなる。その間の夫・徹(杉本哲太)や娘・杏子(吉永 淳)との愛に満ちたシーンも良いが圧巻は衰弱したイサの病床の周りに集まる近隣の人々の振る舞いである。イサは娘に「死ぬのは怖くないよ」と話す。それは強がりなどではない実に自然な言葉として演出されている。アカショウビンの亡き母も闘病の過程で、まったく同じ言葉を発した。そして臨終の前に奄美の古謡である「いきゅんなかな」を聴きたいと夫と娘に幽かな声で伝える。高名な唄者なのであろう男が見事な声と蛇皮線でそれを歌う。そのシーンはボーイ・ミーツ・ガール、ガール・ミーツ・ボーイの恋愛譚と共に、監督が細やかに演出した見事なシーンだ。松田の演技も、監督の演出も見事。死に逝く者の衰えた心身に最期の力を吹き込むように「いきゅんなかな」が見事に歌われる。標準語に訳すとタイトルは、去っていく恋人に「いってしまわれるのですね」という未練と残された者の哀感が込められた古謡である。その哀切がスクリーンに溢れた、監督の才覚が伝わるシーンだった。

 奄美生まれのアカショウビンも舞台の用安という集落は未知の土地だった。3年前に同窓会があり21年ぶりに帰省した。その時も通り過ぎるだけの土地だった。もっとも、その砂浜の美しさには改めて眼を瞠ったのだが。監督が捉える奄美の自然も台風の時の荒々しい高波を交えて良くメリハリが効いている。それはルーツがそうだとしても奈良で育った監督のヤマトンチュの視角は仕方のないところだ。しかしガジュマルの大木や奄美の自然は奄美で朽ち果てた画家・田中一村の見た風景でもある。そのことを改めて思い出させた作品だった。

 もう一点、指摘しておきたいのは、少年・少女の恋愛譚である。アカショウビンには既に興味の彼方の事であるが監督のモチーフには中心的な意味合いが込められていると思う、これまでの河瀨作品とは些か趣きを異にする物語性が強調されている。つまりこの恋愛譚を介して監督は奄美の土俗に分け入ったとアカショウビンには思われた。ヒロインの家族の家の壁には一村の作品も描かれている。それはともかく、多くの観客に興味があるであろう恋愛譚を意図的に監督は作品の機軸に据えた。しかし観る者の関心は様々である。還暦を過ぎたアカショウビンにはさほどの関心をそそらない。しかしヒロインの母親の死に至る過程は中高年、或いは河瀨監督にも軽視できない事実であろう。それが実に興味深かった。若い出演者には監督とスタッフの好みが反映されている。それはそれでよい。しかしアカショウビンのようなへそ曲りの観客には或る意味で作品の完成度を疎外する冗長を感じた。秀作といえど完全無欠ではありえない。監督の次の最高傑作に期待する。

 追記 パンフレットには奄美と縁の深かった島尾敏雄のご長男で写真家の伸三氏が寄稿しておられる。そのなかで、ヒロインが唄う「いきゅんなかな」は「良かったです」と書かれている。確かにそうだ。あの声の響きは繰り返し、繰り返し練習したものであろう。島で育った者には裏声にこめられる島唄の魂とでもいうものが直感的にわかる。そういうシーンだった。

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