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2016年1月29日 (金)

純愛とは何か

 就活の合間はレンタルDVD三昧である。その中には初見の佳作も。『執炎』は浅丘ルリ子百本記念の大作。昭和39年の芸術祭参加作品というから日活が社運を賭けた作品ともいえる。2時間の長尺だが当時の女性たちが感涙しただろう蔵原監督の意気込みが伝わる。戦争に引き裂かれた若い男女の物語である。浅丘(以下、敬称は略させて頂く)の相手は伊丹一三(当時)。アカショウビンには『お葬式』などの作品で同時代の優れた監督として新作を楽しみにしていた人だ。それが俳優として熱演しているのが興味深かった。俳優としては『居酒屋兆次』の高倉 健の憎まれ役としての成熟した演技が想い起こされるが若い頃の発散するエネルギーが純愛物語に貢献している。

 それを観て考えるのは〝純愛〟とは何かという問いである。そのような恋愛とは映画だけの夢物語なのか、現実にもあった事なのか。恐らくそれは市井の人々にも多かれ少なかれあった事実であろうと思われるのは映画として成功した事になる。それは先の大戦で銃後を支えた多くの女たちの実生活を思えばそういう感慨に至る。先に感想を述べた新藤兼人監督の『一枚のハガキ』もそうである。戦争が引き裂いた純愛。それは新藤監督と先妻、乙羽信子の間にも生じた関係と思われる。

 同作は浅丘も渾身の演技で応えている。裸体も晒す熱演だ。それはともかく、このような作品を昭和39年の東京五輪の年に作るということは日本人の娯楽の主要な娯楽の一つだった映画というメディアの最後の仇花のようにも思える。今や先行き不透明とはいえ、戦火の国からすればユートピアのようなテレビのエンターテイメント番組全盛の現実を見れば此の国は平成元禄といってよろしかろう。アカショウビンは残念ながらこのような恋愛経験は経験はできなかったのが多少悔やまれるが人生なんてそんなものかもしれないと諦めるのである。

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