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2016年1月15日 (金)

忘却と想起

 先の辺見 庸氏(以下、敬称は略させて頂く)の 『1★9★3★7』(辺見 庸著 2015年10月27日 株式会社金曜日)で紹介されていた堀田善衛の『時間』(2015年11月15日・岩波現代文庫)と『汝の母を!』(昭和46年9月20日・武田泰淳全集第5巻・筑摩書房)を読み終えた。岩波版には辺見が解説を書き堀田作品の新たな解読を読者に促している。それは現在の若い読者に歴史を省みることも促す。

 またアカショウビンは本日の国会中継を散見し、此の国の現在を自らの生を省みながら再考、再々考する。それにしても辺見と同じく暗澹たる思いに浸らざるをえない。それは、辺見の同書と堀田、武田の作品を読み感ずる気持である。戦争とは時にのんびりとした日常でもあり時に異常な凄惨さも生じ、人間の本質が問われる場でもある。その模様が武田の小説にも堀田の小説にも描出される。

 虐殺、放火、略奪、強姦する日本軍(皇軍)の、その場に自分がいたとしたら、と辺見は思索する。それは父親の過去を通して。堀田の作品が戦後の〝自由〟な言論の中で誹謗、中傷されたのでないかと現在の政治状況も加味し危惧するが、戦後十数年、高度成長の活気のなかで、幸か不幸か、それほどの話題にもならなかったことに辺見は複雑な思いにもなったことだろう。それは苛烈で酷薄な歴史事実に対し当時と現在の状況の変貌によってその歴史事実が新たな相貌で現在に問いかけている事を辺見は指摘する。その問いにアカショウビンも同意する。同作が最後に仄明るい希望を託しているところに幽かな希望の如き光が射す思いに駆られた。そこには堀田の哲学的な洞察も込められている。それは改めて熟考しなければならない領域である。しかし現在を見れば忘却と隠蔽は明らかだ。新たな想起が必要だ。

 この著書だけでなく辺見の洞察、危惧は一連の著作に明らかである。辺見の視角からすれば、現在の政治状況は、此の国で既に戦争は始まっている、のだ。それはアカショウビンの視角では、悪とは何か?という問いになる。抽象的だが歴史事実を省みれば人間の本質にかかわる問いが発されるのではないか。それは文学・思想・哲学を超えて人間という生き物が思索・考察しなければならぬ問いである。それは洋の東西南北を超えて此の惑星で生きる生き物が人間という制約を超えて思考すべき領域である。

 堀田は此の作品になぜ『時間』という表題を付けたのか。それは出版社や周辺の人たちの意向もはたらいただろう。しかし内容は中国の南京で起きた歴史事実である。それを堀田は日本人ではなく自らを中国人に置き換えて書いた。出版された1955年当時の評価を辺見は加味しながら、その当時と現在の状況の変化を憂える。その感想と解説にアカショウビンも共感する。我々が生きている現実は辺見の言うように呆気にとられるほど変貌・変質している。多くの国民はそれに疎いのではないか?辺見の憤りと怒りはこの著作に横溢している。しかし、日本国民はあまりにもノホホンとしている。その現実に、あなたやわたしは気付かないだろうか?そうであれ、そうでないにしろ、過去と現在は現実に変貌する、あるいは変貌している。

 辺見が紹介している武田の作品は開高 健が解説を書いている。開高が若い頃から武田の読者だったことは初めて知った。その幾らか晦渋な解説の文章のなかには開高の先輩作家への畏敬を込めた真摯な気持ちが読み取られる。それを辺見は読み、開高の文章に違和感をもつのだろう。それは現在の読者が、それぞれ沈思、熟考、黙考すべきことだ。

 それにしても、過去と現在の日本人の歴史事実に対する、あまりにも能天気ぶりには我が身を含めて再考、再々考しなければならないことを痛感する。その暗澹たる思いに浸るのは辺見ばかりではなく、幾らかのニッポンジンもいることを期待するのだが。

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