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2016年1月23日 (土)

不眠の夜に

 今年は開高 健の生誕85周年の年で文芸誌が特集を組んでいる。そうか、生きていれば85歳か。亡くなった報道を知った時は早すぎる死が意外だった。高校から大学にかけて開高の読者だったアカショウビンは早すぎる死が無念だった。同時代を生きた作家の死は開高の場合、戦死と言ってもよいかもしれない。ベトナム戦争に新聞社の特派員として派遣され激戦の渦中で書き続けたレポートは出色のものとしてアカショウビンは小説作品と共に夢中になって読んだ。昨年は『ハンナ・アーレント』という映画が公開された。その中でアイヒマン裁判のもようが実写で挿入されていて開高が書いたルポルタージュを読み直した。「裁きは終わりぬ」という文章だ。先日読んだ辺見 庸氏(以下、敬称は略させて頂く)も読んだであろう。それは作家として、ジャーナリズムの中で生きる者として共通の論考として読める。

 辺見によれば日本国の現在は、既に戦時である。簡単に言えば戦争は始まっているという認識である。多くの日本人が何をバカな、という感想であろう。多くのマスコミもそうであろう。しかし、この十数年の辺見の発言、著作を読めば、それは納得できる判断だ。時の政権の横暴と傍若無人ぶりは国会中継の茶番のような質疑応答を見れば瞬時に判別できるだろう。男たちの多くの国民はテレビなど見られない。生きるために仕事をし家族を養わなければならないからだ。それは働く多くの女性でもそうである。アカショウビンのように失業のために毎日が日曜日のような者も珠に見るテレビだ。しかし、しばらく観ているとアホらしくなり電源を切る。そんなことより就業に向けて履歴書を書き、面接に足を運び疲れるのだ。還暦を過ぎた男に仕事はないよ、というのが世間的常識というが、そんな〝常識〟で片付けられてはたまらない。借金だけで此の世を去るわけにはいかない。

 それはともかく、現在に生きる緊張感を持続するためには日々の食事、昨年の手術後のリハビリをかねた散歩が必要だ。毎日歩く用水路周辺の景色は此の世の名残りの如き景観である。カワセミは久しく見かけない。しかしアカショウビンもカワセミも生きるためには食べなければならぬ。病に罹ったのも食わずにアルコール浸りが原因の一つとなったかもしれぬ。それは自ら調整し、抑制しなければならない日常だ。

 辺見の近作、以前の著作、現在のコメントに関しては継続して考察していく。新聞紙上ではインタビュー記事も読んだ。開高の論考の新たな読み直しと武田泰淳や堀田善衛の作品の読み直しと共に発言していきたい。そのためにアカショウビンには映画と音楽が不可欠である。先ごろ逝去したピエール・ブーレーズの録音と旧作映画、新作映画の再見、初見は継続しなければならない。本日は『銃殺』(1964 年・ジョセフ・ロージー監督)を興味深く観た。感想は後日。明日の夜明けは6時47分。少しは早起きしてカワセミとも再会したい。

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