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2016年1月 3日 (日)

1937年の米国映画

 年明けから気力が満ちずダラダラと過ごした。年末は友人のN君と会い食事。その前は知人と都内で忘年会。元旦の夜は恒例のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを聴きながら寛ぐ。マリス・ヤンソンスという指揮者は数年前に初登場しシュトラウス親子の珍しい作品を演奏しアカショウビンも愉しんだ。その後は日本へも来てベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を開いた。その幾つかは友人が録画してくれたDVDを送ってくれて面白く聴いた。しかし今一つ気力が湧かない。就職活動のため履歴書も書かねばならない。

 そこで、きのう借りてきたDVDを観て幾らかブログを更新する切っ掛けを掴んだ気がした。作品はフランク・キャプラ監督の『失われた地平線』(1937年公開)である。レンタルショップに行っても借りたい気力が湧く映画がない。あれこれ物色するうちに、この作品と『オペラハット』を見つけたという次第。完成度は高いとはいえない。当時のフィルムの完全版は失われている。それを復元したものがこれである。1937年の公開時は132分の上映時間。やがて107分の短縮版が上映されたようだ。ところが1967年にはオリジナルネガが完全に損傷し完全版のフィルムも消失。それを1973年、ソニーピクチャーズとUCLA研究所が最新のデジタル技術で完全版復元に着手。世界中に散らばったフィルムを探し出して丹念に比較検討し7分間の映像が発見されないまま、俳優たちのスチール写真で構成し125分の映像と132分のサウンドトラックを復元した、と冒頭に説明されている。本編は先の大戦が始まる前の中国。主人公はイギリスの外交官。彼は戦争が始まり戦火を避けようと空港に殺到する群衆から英・米人を優先し飛行機に乗せる事に奔走する。冒頭のシーンは実にテンポの良いカットで映像に観る者を引きつける。

 この作品は戦争に突入する前後に米国で撮られた。しかも公開されたのが奇しくも1937年。先のブログで紹介した辺見 庸氏の『1★9★3★7★』の舞台となる1937年である。皇軍(日本軍)が南京で虐殺を繰り広げていた年に米国の映画監督は中国の別の場所でこのような映画を撮影していた。一方で同じ年、ドイツではアーノルド・ファンク監督が16歳の原 節子をヒロインに日本に取材し『新しき土』というプロパガンダ作品を作りドイツで大好評だった。このような出来事は偶然であると同時に必然と思われる。それは世界史という枠組みの中で人間たちに生じた出来事である。

 この作品の内容は欧米人の不可思議で神秘的な東洋という興味に駆られたものだ。それはドイツ人のアーノルド・ファンクにもある。何せ日本は火山の恐怖のもとに暮す民族として描かれているのだから。キャプラにとっては東洋とはユートピアである。その地名はシャングリラ(桃源郷)。騒乱の中国から飛行機は上海を経由しロンドンへ戻る筈がチベットへと飛行機は向かう。そこで遭遇する物語がこの作品のメッセージである。欧米社会とは異なる世界が東洋に存在しそれは欧米人が省察し考察し新たな世界に変えていくモデルとなるべき場所と人々として描かれる。戦争の悲惨もなく人びとは穏やかに長寿を保ち生きている。主人公がシャングリラを統治する賢者と対話する場面にはこの作品の強いメッセージが込められている。賢者は次のように述べる。

 「どんな人間でも一生の中で永遠をかいま見る瞬間がある、というあなたが書いた一文に私たちは感動し、あなたを誘拐し招いたのだ」、と。そして、この200年の寿命を長らえている賢人はベルギー人の神父なのだが、さらに主人公に話し続ける。「君が人生で生きていくのはせいぜい、20年か30年だ」。それに主人公は答える。「人生には生きる目的が必要です。目的がないのならば人生も無意味です」。それにぺロー神父は答えて言う。「私はかつて夢を見た。あらゆる国家が強力になる。知的にではなく、俗悪な情熱と破壊欲においてだ。兵器のパワーは増し、一人の武装兵士の力が殺しのテクニックを楽しむようになり、その風潮が世界に広まる」。

 それは、まるで現在の世界を予言しているではないか。というよりも、既に20世紀に入る前からそれは準備され明敏な人々には予測されていたことである。それは辺見氏が警告する日本の現在も南京の1937年も同じ位相で見はるかす視角が必要ということでもある。ペロー神父は世界が突進している宿命から守るために世界中の美術品や文化的な遺産を収集した。人びとの熱病を止めなければ残忍さと権力欲が自らの刃で滅びなければいいが、その時のために私はこうして生き長らえている、と語りかける。「強者が互いを滅した時に人間らしい倫理が成就される。温和な人々が、この地球を受け継ぐのだ」と主人公に伝えペロー神父は息絶える。

 そのメッセージは先の戦争に対するキャプラの意志でもあろう。それは現在の我々に世界とそこに生息し生きる人類に改めて熟考を促さないだろうか?アカショウビンは、このメッセージに回答し残り少ない娑婆での人生を生きるわけだ。その際の導きの糸となる思索は次のような思索に刺激され促される。

 われわれが、導きの糸として受け取られた根本命題である「現‐有の「本質」はその実存のうちにある」を今こそ改めて徹底的に思索すると、以下のことが生じる。すなわち、『有と時』の意味で考えられた「実存」が見通されるのは、問いが現‐有に向かう場合に限られるということである。そして現‐有が問われるのは「有の意味が問われるからである。(『ドイツ観念論の形而上学(シェリング)』 ハイデッガー著 創文社 p56)。この1941年にフライブルクで行われた講義の中でハイデッガーは自らの著書に加えられた批判と誤解に繰り返し回答し未完の著作で提出された問いを再認し、さらに問いと回答を提出している。それは難解だが実に生き生きと著者の思索を強く読者に伝える。新たな年にアカショウビンも衰える体力に抗しながら共振し考察を続けていきたい。

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