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2015年11月14日 (土)

近況

 退院して2週間が過ぎた。食事は玄米食を基本に肉、卵、牛乳は取るなという指南書に従う毎日だ。11日には定期検査で病院を再訪した。若い友人とは喫茶店で会いサラダと紅茶をごちそうになり、月刊誌と新聞も頂いた。入院中も彼には同じ雑誌と新聞を差し入れして頂き無聊の慰みとさせて頂いた。今回久しぶりにブログを更新するのはその新聞に掲載されていた記事に関してである。「週刊読書人」という新聞は昭和24年の創刊の長い歴史を持つ書評紙である。まぁ、特殊な読者向けの新聞である。若い頃はたまに読んでいたが、その後はまったく眼にすることもなくなった。内容はかなり専門的で一般読者の関心を惹くことは少ない。しかし取りあげられている書物や媒体次第では実に刺激的。アカショウビンが刺激されたのも、かつて少しは関心を持ち中途半端なまま現在に至った著者のことが扱われていたからだ。

 かつて日本の思想界や文壇を席巻したフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが自殺、との報道があったのはもう20年前になる。アカショウビンも彼が死んで20年になるのか、と驚いた。そのジル・ドゥルーズが大学を退官後にの弟子のクレール・パネルによるインタビューを約7時間(453分)の映像に残していて、公開は死後にとの約束にも関わらず生前からテレビで放送されたという。それが1999年にフランスでヴィデオになり2004年にDVDになった。それがこのほど翻訳発売されたという次第。タイトルは『ジル・ドゥルーズのアベセデール』。周知の通り、ジル・ドゥルーズと友人フェリックス・ガタリによる主著は『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』。アカショウビンもこれらの浩瀚な書物を読み抜いたうえでなければ論壇や文壇に何事かを発言することはできないといった自覚をもちながら当時を生き過ぎた。しかし、それらの著書を傍らにハイデガーにのめり込んで現在に至るというのがこの20年という歳月だった。フランス哲学では先日の入院中に久しぶりに読み終えた『臨床医学の誕生』のミシェル・フーコーも気になる存在だった。それらの西洋哲学はアカショウビンにとって若い頃からの関心領域で、それらの書物の感想を読み思索した経緯はこのブログに書き継いでいる。というよりこのブログはハイデガーの存在論を基軸に書き連ねたものであることを改めて告知しておきたい。音楽や映画、文学、日記も同様である。その感想の基底にあるのは存在論である。存在論とは何か?それは私たちが存在しているとはどういうことなのか?また物が存在しているということはどういうことか?という問いである。その問いの重要性がハイデガーの『存在と時間』(新しい全集では『有と時』)で提示され、未完に終わった著作で問われた主題はその後の著作や講義で継続された。

 それはともかく、そのようなアカショウビンの年来の関心事のなかでジル・ドゥルーズという名前が何か生きた化石のようにアカショウビンの眼前に現れたという次第なのである。対談者(堀 千晶氏と渡部直己氏)の説明によると、ドゥルーズは極端に対談という形式を嫌っており唯一の例外がフーコーだったそうだ。

 堀氏によると、ドゥルーズは何でも知っている教養人という人々を嫌い、「ぬるい多文化主義というのを決して受け入れなかった」という。「ひとつの言語に固執した上でその中で外国語を作るのだと言う人」である。また渡部氏が言及するインタビュー当時の知の現状をドゥルーズは「砂漠」と表現したらしい。その論拠としてドゥルーズは①ジャーナリズムが書物を征服した。②誰もが何のおそれもなく、個人的なことを書くようになった。③真の顧客が読者ではなく、スポンサーと流通業者になった。そのおかげで文学批評が消えた、と語っているようだ。それは渡部氏が言うように正しく現在の日本の現状だ。

 アカショウビンが強く共感したのは、ドゥルーズが思考することは孤独になることであると述べていることだ。また左派という項目では「左派とは知覚の問題である」と述べていることも。それを渡部氏は次のように語る。「たとえば第三世界の問題が近所のことよりも身近に感じられるのが左派であり、実態として左翼政権が成立するかどうかの問題ではない。その左派的な知覚を通して、さまざまなマイノリティへと生成変化すること。言葉を持たない人間に発話させ、見えないものを見えるようにする。左派とはそういう知覚=運動のビジョンになるわけですよ」。この指摘は保守陣営からの異論も想定され日本の現実の政治状況、論壇とも関連し、通俗的にはもっと具体的な論点が想定される可能性を予感する。

 また堀氏が述べる、ドゥルーズは存在論を定住的なものとノマド的なものに分けて考えている、というのも興味深い。「前者は、たとえば身分のカテゴリーを作って、そこに人をあてはめていく。教員なら教員、学生なら学生、奴隷なら奴隷と人それぞれにカテゴリーを割り振り、そこから出られないようにする。それに対して後者は、カテゴリーを取っ払って、開かれた場の中で人が様々な枠組みを横断できる形にする」。

 以上のような議論は当時も盛んに論壇で論議されていたのを想い起こす。このような対談に触発されて少しはジル・ドゥルーズの著作も再読してみなければならないだろうが、先ずは手術後の体力の回復と就職と生活費を稼ぐことが喫緊の課題ではある。

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コメント

先日はお疲れ様でした。病院でお会いした時よりも、お元気そうで安心しました。ドゥルーズのうったえる「流動の哲学」は、漂泊民に思いを寄せる私の思いと親和性が高いと感じました。

投稿: 若い友人 | 2015年11月14日 (土) 午後 03時38分

 K君、先日はごちそうさま。ドゥルーズのいう、存在論を定住的なものとノマド(移動的なもの)に分けるという定義は興味深いし、おっしゃるように漂泊民とも関連してくるだろうね。そのあたりのご研鑽は次にお会いした時に傾聴させて頂くよ。

投稿: アカショウビン | 2015年11月14日 (土) 午後 05時28分

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