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2015年11月25日 (水)

1970年11月25日

読者の方からアカショウビンの三島由紀夫についての考えが知りたいというメールが間接的にあったので述べさせていただく。この10年間に何度かこの日に三島についての考えは述べてきた。三島に関する論考で近年、精読したのは保田與重郎のものである。「天の時雨」と題された論考は保田が文芸誌に書いた五つの論考から成る。(200010月8日新学社 保田與重郎文庫22「作家論集」) 保田は三島の死の前に「日本の文學史」(2000年4月8日新学社 保田與重郎文庫20)の全24章のうち第16章「南朝の文學」を書き終え、新潮12月号に掲載された。保田與重郎文庫には〝後記〟として昭和47年4月17日に記された一文が付け加えられている。

その中で保田は三島の自刃を次のように述べている。「三島氏の激文並に命令書は、日本の文學の歴史を考へ立言するに當つて、一箇眼目となすべきものにて、わが日本の文學史の信實である」。続いて保田は吉田松陰の刑死の七日前、安政61020日の書簡を引き、「私はこの義を以て、わが日本の文學史の永遠の思ひとするのである」と書いている。

このような論考は現在の我が国の文学風土、思想風土にどれほどの影響を与えているかアカショウビンは詳らかにしない。しかし、それを土台にせずして日本文学も日本思想もあり得ない。それは〝憂国忌〟などとして保守の論客や一群が気勢を挙げて三島を政治的に頑弄する事とは一線を画す。作家、文学者としての価値が先ず優先される。その中で三島の死を、小林秀雄と江藤淳が対談で考えを異にしたことはかつて書いた。そこが現在のアカショウビンの三島由紀夫という作家に対する眼目である。つまり三島の死は江藤が言うように三島の「単なる病気」ではなく、小林が言うように松陰の死という事実に比肩される日本の歴史の中に繰り込まれるべき歴史事実という視座である。それは恐らく左右両翼の論説を超えた日本という国の歴史に関わるものだ。そこには人間観、世界観も含めてハイデガーが現存在、現有と捉えた生き物の歴史と存在(有)が照射され考察されなければ解き明かされない実存の歴史事実だ。先ず、熟考された問いが立てられなければならない。それに対する回答が与えられる。そこからしか真理、真実への道筋は切り開かれない。三島由紀夫の死と生き方、死に方は、そこからしか捉えられないと言ってもよい。

高校生にとって、あの〝事件〟の衝撃は強烈だった。国語の教師は興奮して授業を中断し、三島由紀夫が、どういう作品を書き、どういう小説家なのかを演説した。何より同級生が持ってきた、朝日新聞の夕刊に掲載された、介錯された三島の首の写真が〝事件〟の凶々しさを象徴していた。象徴というより、それは自分たちが生きている社会の生々しい現実としてアカショウビンには痛烈な印象を与えた。三島の死を遥かに越えて還暦を越えた歳になり、未だに熟考を要する歴史事実の一つとして脳裏に明滅する。

 それは政治的状況や文学的な解釈を超えて、一人の小説家、男の精神領域への好奇心と興味、関心を伴い高校生の日常に割って入ってきた衝撃だった。政治的にも文学的にも〝事件〟の影響は幽かなものになっている。しかし、近年の論考では渡辺京二氏の「三島の意地」(『未踏の野を過ぎて』2011年11月25日 弦書房)と題する一文が興味深かった。一人の小説家の苛烈な死に様は、江藤 淳が揶揄したような〝病気〟ではないと確信する。それは小林秀雄が、それに対して応えた歴史的意味づけがされる〝事件〟とアカショウビンは理解する。

 何年か前に大観の展覧会で大観の作品群を観て三島の文学作品も日本という国の歴史、敢えて言えば世界史の中に位置づけられてしかるべき内容を含むと確信した。大観作品の奇矯は三島の死の奇矯と相通じる筈だ。それが此の国の〝歴史〟を通覧するときに炙り出される典型的な現象なのではないか?大観の大柄な金屏風絵の寒山拾得の表情の狂気の如き笑いは三島の高笑いの表情を想い起こさせる。それは娑婆の現実に対する理想家の拒絶とも唾棄とも解釈される意味性を持たないだろうか? 戦後を生き延びた死にそこないの人生に決着をつけたのが、あの〝事件〟であることは前後に自裁した人々の精神風景と近似しているのではないか?それは現在の政治状況、文化的現在とも共振し合っているのではないか?

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