« 夕べのコンサート | トップページ | 体験版 医療の現在Ⅱ‐⑧ »

2015年10月 1日 (木)

病床無聊

 昼過ぎ、三階のコンビニまで行く途中、外の景色が見えるところで外は雨らしいのに気付いた。五階の病室に戻り外を見るとかなり強く降っているようだ。しかし窓を開けても雨音は聞こえない。下に見える病院の電源のモーター音らしき音がわずかに聞こえるだけだ。近くの何の樹だろう、大きな樹木に粛々と雨が降り注いでいる。今日から十月だ。このような景色を眺めていると、夏はたしかに過ぎたように思える。何度か残暑はあるだろうが、確実に秋は深まり、やがて冬がくる。これまで実にいろいろな事が重なった。

 当初の予定ではきょうが退院日だったのだ。それが一昨日、夜中に嘔吐し朝まで吐き続けた。おかげでまた点滴生活に後戻り。いつ退院できるのか今のところ未定。まぁ、胃を半分切ったのだから回復まで時間はかかるだろう。いきとどいた看護体制の中で無聊な日々をおくるのもまた好しと思わなければならない。

 窓外の樹を眺めていると植物的生とは人間たちの生とどう違うのかと問いたくなる。都会の建物の景色のなかで、こちらから見える生き物は樹だけである。風もなく葉は揺れていない。時々かすかに梢が震えるくらいだ。雨を樹は悦んでいるのか。しかし悦ぶという受け取り方自体が人間の賢しらにすぎまい。樹は何年あるかしらぬ自らの生を生きるだけだろう。一本の樹がそこに立って生きていることには人間たちの裁量がはたらいている筈だ。どこかから移植されたのか、あるいは周囲の木々が伐採されたのか、ともかく一本の樹がアカショウビンの視界に存在する。

 何ともとりとめもないことで恐縮。しかし、将来、この時間が稀有な時であったことに思い至ることであろうことは間違いない。此の世で生きることにあらためて可能性を模索する時のなかにアカショウビンが存在していたわけなのだから。あの樹が朽ちる前にアカショウビンは此の世を去るだろう。しかしこの今、一本の樹とアカショウビンが感応道交した可能性もある。樹の生の中でそれは果たして記憶されることはあるだろうか。

|

« 夕べのコンサート | トップページ | 体験版 医療の現在Ⅱ‐⑧ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/62389241

この記事へのトラックバック一覧です: 病床無聊:

« 夕べのコンサート | トップページ | 体験版 医療の現在Ⅱ‐⑧ »