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2015年10月26日 (月)

体験版 医療の現在 Ⅲ-⑤

 本日で入院以来41日目。2週間の予定が何とも長引いた。しかも退院予定は未だたっていない。朝夕は寒さも一日一日増してくる。明日は一時外出願いを出し娑婆の空気を久しぶりに吸っておきたい。

 このところ気になっているのが食事と朝の医師たちの回診である。医師たちにとって栄養士が配慮する食事は自分たちとの仕事とは別物である。また毎日の回診は流れ作業の如きものである。それは彼らの仕事のひとつとして組み込まれてはいても患者の側からすれば最新の気配りのもとにされているものか単なるルーティンかは一瞬で判別できる。総合病院というシステムは工場と同じで分業と縄張りで組織されている。分業と言えば産業革命以来の工業用語だが、それは広く社会システムに及んでいる。それは効率化という名目のもとに我々の生活習慣にまで。近代以前には生存競争の名残りとしての生物的な縄張り争いがそれに加わると話は語るに堕ちる。医師たちは看護師たちを差別し、看護師は清掃の人々を差別する。酷に言えば、と言うより体験的経験的に事実だが、医師は患者を差別する。

 差別という言葉は妥当かどうかはさておく。しかし立場の違いに差異は厳然とある。しかもそれは支配と被支配関係である。患者は医師や看護師から支配される存在だ。そこに倫理規制はあっても厳格ではない。少なくとも現実では。それは倫理という概念がこの社会に馴染んでいないからだろう。少なくとも日本では道徳という言葉が戦後しばららくまでは共通の理解だったろう。少なくともアカショウビンが小学生のころまではそうだった。それが中学生になったころから倫理という言葉がそれに取って代わった。

 何も道徳を持ち出して保守的な論説を展開しようというのではない。しかし先のフーコーの視点に立てば戦後にそれまでと根本的に変わった言説空間が生じたことは間違いない。それはこのブログでアカショウビンが存在論の枝葉として時に論じる情勢論であるが、ここはその場ではない。

 病院というシステムは西欧化した日本が幕末明治維新以来、戦後は敗戦によりさらに拍車をかけて欧米で進展した近代化という人類史の一こまの中で現実で機能しているものである。そこに流れ作業という工場システムのような非人間的な行為が現実的に日常化していることへの批判は明確にしておかねばならない。先のフーコーの指摘はそこで未だに有効で示唆的だ。それは存在論として新たな展開の可能性をもつ。

 娑婆での限りある生のなかで病は死と向き合うということである。手術で生還はしても余命は健常人からすれば遥かに限られている。その間に隠蔽された事柄、これまで明らかにされてこなかった事柄があれば、それは必ずや明るみに出さねばならない。

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