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2015年10月22日 (木)

体験版 医療の現在 Ⅲ-④

本日は午前中、先日診察してもらった左肩の痛みと左手指の痺れ、浮腫みを詳しく調べるためにMRI検査。仰向けの姿勢でヘッドフォーを付けトンネルのような器械の中に入る。何やら物凄い音がして磁気が身体を精査する。約15分で終了。造影剤を使うかもしれないと念をおされたがそれもなく終わった。あれはいやなものである。以前、身体がポカポカしてきて血管が破裂しそうになったので途中で中止したことがあるのだ。

長引く入院は患者に良からぬ疑心と不安、不信をもたらす。同室の隣の紳士は一向に回復しない病状と食欲不振に医師諸氏の集団回診時にさすがに不安を吐露していた。それは裏に不信を抱いたものとも思われる。しかし物腰の立派な紳士である、それは下司の勘ぐりであろう。しかしアカショウビンは下司である。不信をもつ。それは彼らや看護師たちの瞬間の表情、病状説明の言葉の端々、ちょっとした手つきから直感的に読み取るもので恐らく当たらずとも遠からず。いや、殆ど確信的に当たっている筈だ。

 つまり彼らは厳密に言えば、授業と現場で学んだ幾らかの科学的だが曖昧な知識と自らの狭量な判断を元に、したり顔で判決を下す裁判官の如き者たちだ。先日読み終えたフーコーの「臨床医学の誕生」(1963年 神谷美恵子訳 みすず書房)によれば、現代医学は生誕期を18世紀末の数年間と規定したという。それから200年余、19世紀から20世紀の数々の「偉大な」発見と技術的な進歩によってそれは更なる進化を遂げて現在に至っている。しかし、その進化とはいかほどのものか。将棋や囲碁のトップを極めたプロが言うように彼らが極めた世界は全体の数%にも満たないと言うところが真実に幾らか近いという程度のものだろう。それさえも恐れ多いものとアカショウビンは確信する。

 その、謙虚というより人間が理解できるものの卑小さ、その自覚のないところに真理は見えてこないだろう。フーコーが言う、可視化されたものより不可視のもの、語られたものより語られなかったものを読み取らなければならないのだ。それは死のまなざしを感得するとも言えるかもしれない。それは医学を多少学んだ者たちに把握できる世界ではない。それは専門のジャンルを超えてさらに熟考を要する領域に踏みこむことだ。

 

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