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2015年9月 4日 (金)

回想と現在

 若い友人から、あなたは私の歳の頃どんな本を読んでいたのですか、とネットで尋ねられた。何だろうな、と思いその頃の日記を引っ張り出した。別のノートにはその年に読むつもりの本が羅列されていた。月刊誌に掲載されていた新作小説、好きな作家の単行本、内外の哲学書、仏教書、推理小説、評論集、落語の聞き起こし、など何とも雑多。雑読もいいとこだ。

 1986年の暮れ。アカショウビンは東京の下町で仕事を探しながらアルバイトで食いつないでいた。何かをやらねばと思いながら。これまでの10年を如何様に総括するかと悶々としながら。そこでは成住壊空という仏教用語も明滅していた。もったいつけて言えば無常感とも諦観ともいえるかもしれない。深夜のパチンコ屋の掃除でアパートに帰るのは明け方。昼間に寝て夕方に起きる。そのあとはCDのセールスマン。結婚もせず、このまま朽ち果てていくのか、といったぼんやりした不安はアルコールでいなす。

 十年は、ひと昔、と井上陽水は歌った。時代は移り変わる。十年は一瞬でもある。その間にさまざまな日常を人は生きる。記憶は消え去るが時に閃光のように甦る。そのころは10年前の日記を読み直している。生き方を変えようともがいているのだ。その10年前、1979年は社会人になって間もなく。大学を出て1年の就職浪人のあと採用された音楽事務所は半年で辞めた。それからは秋葉原の家電店の販売員のアルバイトで凌いだ。

 1989年、時は昭和から平成へと移った。そこで果たして昭和は総括されたのだろうか。その問いは現在まで底で繋がっている。人の生を社会の区分で分けられてはたまらない。歴史の底に日常は沈殿していく。しかしそれを漫然と眺めているだけなのかオレの人生は?1979年の日記には夢のことを書いている。夏の夢は高校の同級生たちが登場する。その10年後の冬の夢でアカショウビンは囚人として監獄にいる。手錠、独房、狭い汚い便所、汚穢、裁判、公判、弁護、釈放、自由。隔絶した恐怖、苦痛からの解放。その解放感こそが自由であり、生の実感だったのではないか。

 今はどうか。その頃から少しも変わらないといえば変わらない。友人たちはずいぶん変わったと言う者もいるが顔つきや体格だろう。本質は変わらない。その本質とはしかし静的なものでは決してなく正しく動的なものだろう。それは魂なのか霊魂なのか、精神なのか。

 若い友人とは先日、新橋の飲み屋で会った。いい店だった。40年間続けているとマスターは言う。アカショウビンは久しぶりに故郷の黒糖焼酎を飲んだ。その時、友人にメモして伝えた本や短篇の中に「テロルの決算」(沢木耕太郎)、「セヴンティーン」(大江健三郎)があった。27年間の歳月が過ぎ戦後70年とマスコミは騒ぐ。アカショウビンにとってこの平成と命名された27年間はどのように国の歴史と関わり交ったのだろうか。残り時間はそれほどない。幕末も明治も大正、昭和、平成も貫く棒の如きものなのか。

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