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2015年9月 7日 (月)

陽の光と人の孤独

 大阪に棲んでいたころ陽の光のありがたさに改めてに気付いたことが二度あった。工事現場の近くで警備の仕事に携わっていた時。田圃にサギがいる。それに降り注ぐ陽の光。もう一度は百貨店のフロアを警備していた時に階下から植わっていた高木に降り注ぐ光。人は日常生活のどこかで、陽の光のありがたさに気づくが日常の無意識の時にまぎれて直ぐに忘れる。しかし振り返って、その光の貴重さに思いいたることがある。

 「幻の光」(1995年 是枝裕和監督)は監督のデビュー作。これは、そのような記憶を想い起こす機縁となる佳作だ。その後、キャリアを積んだ監督の中でも二度と撮れない作品と言ってよいかもしれない。そこに漲る詩情は原作を超えているのではないかとも思われる。それともうひとつ。是枝作品の基調には人の孤独に対する一つの動かし難い視覚がある。それは後の「そして誰もいなくなった」などの作品に引き継がれる。それは映像の純文学の如きものとして若い監督たちの作品に描かれる。事故で愛する夫を若くして失くした女が抱える孤独。尼崎から再婚して能登の輪島の子持ちの男に嫁ぐ孤独。異郷の地で生きる孤独。それは人生のなかで誰もが経験する孤独だ。正しく人間はこの世界に投げ込まれた孤独な存在なのである。哲学用語で言えばハイデガーの説く頽堕だ。幾人かの映像作家が人間が共通して抱えるその孤独感を映像で表現しようと試みる。しかし往々にしてそれは独りよがりの如きものとして失敗する。ところが、それが作品の詩情として描かれる時がある。是枝はそこに達したと思われた。それは洋の東西南北をとわない。幾つかのカットはI・ベルイマンやテオ・アンゲロプロス、小津安二郎、タルコフスキー作品にも比肩することをアカショウビンは看取した。

 先日、内田吐夢監督の昭和33年作品「森と湖のまつり」をレンタルDVDで観た。巨匠の失敗作と思う。武田泰淳の原作小説は当時大ヒットしたらしい。巨匠も気合い十分で臨んだことはわかる。しかし原作を超えたとはとても思えない。意気込みと結果の無慚な駄作とアカショウビンは解した。それからすると是枝作品は宮本 輝の原作を恐らく換骨奪胎し新たな映像表現を成し得ていると確信する。主演の江角マキコの大阪弁(尼崎弁)はこなれていない。しかし作品の構成力がそれを補って余りある。赤井英和好し、内藤剛志好し、柄本 明好し。子役や脇役陣も健闘している。特筆すべきはキャメラだ。中堀正夫が捉えた雨上がりの尼崎の民家の道路の照り返った光の美しさと、能登・輪島の葬列のロングショットは見事だ。輪島の海の凄絶さもしっかり捉えている。音楽は陳 明章(チェン・ミンチャン)。作品の静謐さに見事に寄り添っている。

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