« 間違っているという可能性 | トップページ | 未見の佳作映画 »

2015年8月30日 (日)

イェルサレムのハイデガー?

 「週刊読書人」は8月28日号で1面から2面余を割いてハイデガーを特集している。3人の研究者による鼎談形式で。この新聞を読むのは昨年、木田元氏が亡くなられた時の特集号を若い友人からの情報で読んで以来。以下、敬称は略させて頂く。話者は森 一郎((東北大学教授)、齋藤元紀(高千穂大学教授)、池田 喬(明治大学専任教師)。特集の首見出しは「ハイデガー哲学の広がりをめぐって」。冒頭、昨年ドイツで「黒ノート「というハイデガーが死ぬ直前まで書き続けた断章が刊行され大きな話題になったことが池田によって紹介される。この書に反ユダヤ主義的文言が含まれていることが刊行前にフランスやドイツのメディアに流出し一大騒動になったらしい(齋藤)。齋藤は、同書が刊行中のハイデガー全集全102巻の第94巻から96巻として刊行され編者のペーター・トラヴニーの著作や発言をめぐって活発な議論が行われていることを伝える。今年3月にイスラエルでもトラヴニーを中心として集まりがあったことも。それに森が表題の質問をしたのである。これに齋藤が笑って「いや、テルアビブで」と答える。これは1961 年にイスラエルで行われた〝アイヒマン裁判〟について「イェルサレムのアイヒマン」というハンナ・アーレントの論考を示唆している。つまりハイデガーがアイヒマンと同列なのね、という皮肉も込められているわけだ。この裁判に関しては開高 健も裁判を傍聴し一文を書いている。文庫では「声の狩人」(光文社 2008年)所収の「裁きは終わりぬ」で読める。

 ハイデガーが第2次世界大戦中にナチに加担したことは戦中から戦後すぐに既に明らかになっていた。それが改めて大きな話題になったのは1987年にヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」(山本 尤訳 名古屋大学出版会 1990年10月20日)がフランスで刊行されたときだ。それを受けてユダヤ系の哲学者フィリップ・ラクー‐ラバルトが「政治という虚構」(浅利 誠・大谷尚文 訳1992年 藤原書店)を刊行する。アカショウビンは先にこちらのほうを読んだ。そこから「存在と時間」を再読、再々読し他著作、講義録にも眼を通してきた。当時はスキャンダラスな取り上げが主流だった。その後、デリダやアドルノ、リオタールら大物思想家が参戦し議論は同時に哲学的な掘り下げも進みハイデガー哲学の急所へも考察が進んできた。日本では木田 元などが戦後粘り強くハイデガー読解を継続してきたことは周知の通りだ。

 この鼎談を読むと、世界中での議論の盛り上がりが28年前と同じようにハイデガーのナチズム加担と反ユダヤ主義の言質がとられたを事に対する騒ぎであることはわかる。途中の見出しでも「ハイデガーとユダヤ人」で各氏が意見を述べている。池田は「ハイデガーの周りに様々なユダヤ人思想家がいたことが、もう少しシリアスに捉えられ議論されるようになっていく」としてジャーナリズムの論調に同調する危険を述べている。

 この鼎談の論点で重要なのはハンナ・アーレントを介して森が指摘している〝ユダヤ人の無世界性〟という指摘だ。これが「黒ノート」の中でもハイデガーの反ユダヤ主義の言質として過大に扱われているが、それは「戦後にハンナも同じ事を言っている」として森は、それをハンナは自己批判的に展開し近代全体の問題として考えようとした、と述べる。

 またトラヴニーが講演で宇宙飛行士ガガーリンに関するレヴィナスのエッセイをもちだし人間が宇宙に飛び出していく時、大地から離れて、場所を持たない状態になる、そうした新しいテクノロジーのあり方を肯定し、ユダヤ的なものと繋げている、ことも森は紹介する。〝無世界〟ということをハイデガーは批判的に捉えるが、ガガーリンのほうがユダヤ的で、こちらの方向にこそ見込みがある、としている轟 孝夫の「つまり持って行く方向は正反対ながら実は同じことを言っていると考えれば、ハイデガーのユダヤ論も、あながち的外れではないんじゃないか」というトラヴニーへの応答も。

 先のブログでは田辺 元のハイデガー観も取りあげた。彼や九鬼周造はドイツでハイデガーと接し自らの哲学を展開している。そのとき彼らはバックグラウンドとしての日本を強く意識していた。それはドイツへ留学し、お勉強する事とは異なる〝対決〟ということだ。それはハイデガーがニーチェと対決することで近代西洋哲学の転倒を画策したと同様の姿勢ともいえる。齋藤は「新カント派やフッサールに対して、ハイデガーが取った立ち位置を考えてみると、自分の足下を見るというか、ある種の土着性から自らの思考を立ち上げていこうとした。そういうスタイルだったわけです。そこがユダヤ人や日本人留学生たちに、ある衝撃を与えたんじゃないかと思うんですね」と話す。

 鼎談には出てこないが、このブログでもかつて言及したフィリップ・ラクー‐ラバルトがハイデガーが初期マルクスを読んでいたのではないか、という「貧しさについて」(藤原書店)という晩年の論考も含めてハイデガー哲学の全容を考察するうえで更に思索していかねばならない本質的な問題がある。

 先に紹介した「時代を読む」(潮出版社)の中で吉本隆明は自著の「死の位相学」(潮出版社)で西欧の死生観を象徴するするものとしてハイデガー、サルトル、K・ロスを取りあげている。その鼎談のタイトルは〝宗教と科学の接点を問う〟だ。そのような考察も含めて戦後から現在、将来を射程に思考していかねばならない一つの重要な論点は〝技術(テクノロジー)〟である。戦後すぐにハイデガーは原子爆弾や原子物理学を通してそれを熟考している。その論点はアカショウビンの残り少ない生で些かなりとも思索を深めていきたいところだ。

|

« 間違っているという可能性 | トップページ | 未見の佳作映画 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/62182664

この記事へのトラックバック一覧です: イェルサレムのハイデガー?:

« 間違っているという可能性 | トップページ | 未見の佳作映画 »