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2015年8月26日 (水)

間違っているという可能性

 先般亡くなられた鶴見俊輔さん(以下、敬称は略させて頂く)の事が気になり何か書かねばと思いながら一カ月が過ぎた。きょう本棚を整理していてたまたま1991年に発刊された「時代を読む」(潮出版社)を幾つか拾い読んだ。ホスト役の鶴見、河合隼雄がゲストを迎え鼎談する。その中で吉本隆明、加藤周一のものが面白い。特に加藤とのものは実に刺激的だ。タイトルは「日本文化の創造力を『日本文学史序説』に読む」。

 その中で加藤は日本文学史の転回点を平安前期、鎌倉、徳川幕藩体制が固定する時期、幕末維新におく。平安時代に世界に先駆けて小説がで出てくる理由を他の国よりもはるかに閉じた宮廷社会が成立したことが第一の条件とする。万葉集の中に仏教の影響が95%ないことは、一体そこで何が起こったのか考えなければならない、と。また日本の彼岸的な思想の流れの中でいちばんの例外が鎌倉仏教という指摘も加藤ならではだ。『古事記』、『万葉集』いらい今日に至る日本的世界の中で打ち込まれた楔が鎌倉時代だった。加藤はそれをきれいな形で鋭く表現したのが法然という。歴史観念が出てきたのは鎌倉時代。『愚管抄』が最初の歴史意識だと見なす。日蓮が出て国家、政治と正面からぶつかる。それまでの日本仏教は全部、禅宗でさえ鎮護国家という点では同じ。ところが日蓮はそれをひっくり返す。仏教の道具が国家。それを断言し主張したのが日蓮と道元と言うのが面白い。それは両者の本質を言い当てていると思われる。日蓮と道元の出自は中産階級ではない。道元の出自は皇族で日蓮は旃陀羅の子だから二人とも集団のアウトサイダー。日本というムラ社会を突き抜けている。ムラを突き抜ければ、いろんなことが突き抜けられる。日蓮も道元も一連のインテリたちと異なり中国崇拝ではない。江戸時代の終わりまで中国にコンプレックスのないインテリゲンチャなんていない。このような加藤の指摘はいまさらながら実におもしろいではないか。

 加藤は道元の男女観についても指摘している。法然いらい彼らは徹底して男女の区別をしていない。道元は経典のどこに男女の区別を説いているか、無学文盲の一人の少女といえども悟りのぐらぐらな大僧正より偉い。高野山の女人禁制などは仏法を知らざる痴人の狂言に過ぎない、と。その言や好し。アメリカ仕込みの戦後フェミニズムも日本のフェミニストはどうして道元をかつがないのか。ムラを突き抜ければムラの中の上下関係、秩序、差別、すべてが相対化されるという指摘は加藤周一の面目躍如だ。

 先のブログで引いた内村鑑三も、加藤は外国での経験を生かしたのは彼と鶴見俊輔ぐらいだ、と讃嘆する。道元もそれを突き抜けたから漢文でなく日本語で書いた。内村も私費で行った米国のニューイングランドで内村自身のキリスト教を見つけた。そこで内村はアメリカか日本かという問題は二義的になった。内村にとって一義的なのはロマ書と指摘するのも正確だ。当時、洋の東西でロマ書を根底的に共時的に読み抜いたのは内村とカール・バルトだ。このあと面白いのが加藤の小林秀雄批判だが、それは次の機会に。

 先日、鶴見が亡くなった時の毎日新聞(7月25日27面)の〝評伝〟で吉本隆明のベ平連に同調する鶴見批判、「社会主義国家群に対する同伴運動で、自立していない」に対する鶴見の回答が鶴見らしい。「自分が間違っているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないというのが、基本的な考えです」というのも如何にも鶴見らしい。

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