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2015年8月23日 (日)

怕ろしきもの

 死は怕ろしいもの、と内村鑑三は述べ、その理由を「霊魂が肉躰を離れて他に宿るべき躰を得る目的がないからではありませんか」と、明治33年4月16日に発刊した「宗教座談」2014年 岩波文庫 p95)で答えている。同書は、キリスト教徒内村鑑三が「宗教は事実であります。議論ではありません、信仰の事実なくして宗教は議論することの出来るものではありません、この座談の如き実に取るに足らないものでありますが、しかしこれとてもまた事実なしの宗教談ではないつもりでございます」と〝口啓き〟の序で記している内村の率直な信仰体験の書である。

 このような言説はアカショウビンに実に刺激的なものとして響く。それは哲学的に死を把握しようとするのではなく一人の信仰者として考え抜かれた声として。

 先日、外の陽光を浴びようと衝動的に上野の国立西洋美術館を訪れた。何度か訪問している常設展は訪れるたびに新たな刺激を与えてくれる。今回はたまたま会場の一角でル・コルビュジエ展が企画されていた。絵画作品を集中的に見るのは初めて。実に強い刺激を受けた。一人の芸術家の眼にはモデルや世界はかように不可思議に映る。それが芸術といえばそれまで。そこには人という生き物が棲む世界と時間がどういうものなのかのヒントを与えてくれることには注意しよう。そこでは我々は通俗的な日常で見失っている根源的なものを伝える豊饒な実例に遭遇すると確信するからだ。何とも痛烈にデフォルメされた女たちがそこには描かれている。

 ル・コルビュジエの作品中で死は怕ろしいものとは異次元のものとして理解する契機を与えてくれる。それは私たち人間とは何か、私たちが棲む娑婆あるいはハイデガーが説く<世界>あるいは<世界・内・存在>がどういうものかというような。それはまた、内村が聖書を介して捉えた死生観が一人の芸術作品としてアカショウビンには啓示の如くに。しかしこの啓示は、すぐ消え失せる。アカショウビンの現在と今後の生はそれを縁に繰り返し呼び戻し血肉化することで新たな次元に飛躍する努力といってもよい。

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