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2015年8月31日 (月)

未見の佳作映画

 「暗殺」と「乾いた花」は篠田正浩監督(以下、敬称は略させて頂く)の1964年作品。最初に「暗殺」を観た。司馬遼太郎の原作を映像化した監督の意気込みが伝わる秀作。主役は丹波哲郎。幕末を生きて斃れた清川八郎の生を描く。志士達の姿や幕末の時代情況を篠田独特の視線で濃密に。佐田啓二が坂本竜馬役で出演しているのは意外。「乾いた花」は石原慎太郎原作。主役は池部 良、加賀まりこ。池部のヤクザと奇妙な博打打ち加賀の小悪魔的な存在感が面白い。賭場の緊張感は東映任侠映画とは異なるこの作品の成果ともいえる。親分役の宮口精二と東野英治郎の演出はキャスティングの手柄だ。武満 徹の音楽が秀逸。武満作品で映画音楽が重要な場を占めていることを実感する。

 「ラモーレ・チッタ」(街の恋)は1950年代イタリアのオムニパス作品。6人の監督の短篇で構成されている。映画俳優でなく大都市に棲む市民たちが主役というのが共通テーマ。〝待つ・出会う・別れる、は愛が持つ3つの顔〟というナレーションが入る。初期のフェリーニとミケランジェロ・アントニオーが参加しているというので興味深く観た。フェリーニは「結婚相談所」。敗戦後の荒廃したローマに地方から人々が流れ込む。若い男女は結婚願望が強い。政府は多くの公団住宅を増設するが結婚できず売春で生活する女も多い。フェリーニがそのような男と女の悲哀をさらりと描いている。ミケランジェロ・アントニオーニの「自殺未遂」はもっと深刻。恋愛の破綻や生活苦で自殺を図った女たちを描く。他にはカルロ・リッツァーニの「金で買う愛」、ティーノ・リージの「3時間のパラダイス」、フランチェスコ・マゼッリの「カテリーナの物語」、アルベルト・ラトゥアーダの「イタリア人は見つめる」。この中でアルベルト・ラトゥアーダ作品が他作品の暗さとは異なるイタリア人の明るさを描いて面白い。中流から上流階級のファッションを大いに楽しむ豊満な肉感を誇らしげに男たちの目にさらす若いイタリア女性が何とも輝いている。台詞の殆どない映像と軽やかな音楽がなかなかよろしい。敗戦後のイタリアの青春偶像は日本でも文化は異なってもアメリカ映画に影響されたという点では共通する。しかし若い監督たちがそれとは異なる新しい試みに挑戦する貴重な記録としても貴重だ。

 篠田の作品を最初に観たのは「心中天網島」(1969)。これには感心した。70年代に小劇場でよく上映されていたATG作品と共通する芸術家肌の監督たちの作品の一つというのがぼんやりした印象だった。「乾いた花」もそうだが完成度は高い。しかし「心中~」以降は幾つも観ていない。その後観たのは「瀬戸内少年野球団」、「少年時代」など幾つか。これはエンターテイメント溢れる作品で夏目雅子の熱演が光った。篠田の戦後社会へのメッセージも含まれてiいるが「乾いた花」の賭場のシーンのようなヒリヒリした苛烈さはない。監督として熟練し或る種の脱皮しを遂げたのだな、とでもいう印象をもった。往年の名匠が既に逝き篠田も84歳。新作は期待できないだろうが、同年代の山田洋次の元気さが際立つ。篠田の初期作品がレンタルされるのを期待したい。また、たまには映画館に足を運びたい。

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2015年8月30日 (日)

イェルサレムのハイデガー?

 「週刊読書人」は8月28日号で1面から2面余を割いてハイデガーを特集している。3人の研究者による鼎談形式で。この新聞を読むのは昨年、木田元氏が亡くなられた時の特集号を若い友人からの情報で読んで以来。以下、敬称は略させて頂く。話者は森 一郎((東北大学教授)、齋藤元紀(高千穂大学教授)、池田 喬(明治大学専任教師)。特集の首見出しは「ハイデガー哲学の広がりをめぐって」。冒頭、昨年ドイツで「黒ノート「というハイデガーが死ぬ直前まで書き続けた断章が刊行され大きな話題になったことが池田によって紹介される。この書に反ユダヤ主義的文言が含まれていることが刊行前にフランスやドイツのメディアに流出し一大騒動になったらしい(齋藤)。齋藤は、同書が刊行中のハイデガー全集全102巻の第94巻から96巻として刊行され編者のペーター・トラヴニーの著作や発言をめぐって活発な議論が行われていることを伝える。今年3月にイスラエルでもトラヴニーを中心として集まりがあったことも。それに森が表題の質問をしたのである。これに齋藤が笑って「いや、テルアビブで」と答える。これは1961 年にイスラエルで行われた〝アイヒマン裁判〟について「イェルサレムのアイヒマン」というハンナ・アーレントの論考を示唆している。つまりハイデガーがアイヒマンと同列なのね、という皮肉も込められているわけだ。この裁判に関しては開高 健も裁判を傍聴し一文を書いている。文庫では「声の狩人」(光文社 2008年)所収の「裁きは終わりぬ」で読める。

 ハイデガーが第2次世界大戦中にナチに加担したことは戦中から戦後すぐに既に明らかになっていた。それが改めて大きな話題になったのは1987年にヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」(山本 尤訳 名古屋大学出版会 1990年10月20日)がフランスで刊行されたときだ。それを受けてユダヤ系の哲学者フィリップ・ラクー‐ラバルトが「政治という虚構」(浅利 誠・大谷尚文 訳1992年 藤原書店)を刊行する。アカショウビンは先にこちらのほうを読んだ。そこから「存在と時間」を再読、再々読し他著作、講義録にも眼を通してきた。当時はスキャンダラスな取り上げが主流だった。その後、デリダやアドルノ、リオタールら大物思想家が参戦し議論は同時に哲学的な掘り下げも進みハイデガー哲学の急所へも考察が進んできた。日本では木田 元などが戦後粘り強くハイデガー読解を継続してきたことは周知の通りだ。

 この鼎談を読むと、世界中での議論の盛り上がりが28年前と同じようにハイデガーのナチズム加担と反ユダヤ主義の言質がとられたを事に対する騒ぎであることはわかる。途中の見出しでも「ハイデガーとユダヤ人」で各氏が意見を述べている。池田は「ハイデガーの周りに様々なユダヤ人思想家がいたことが、もう少しシリアスに捉えられ議論されるようになっていく」としてジャーナリズムの論調に同調する危険を述べている。

 この鼎談の論点で重要なのはハンナ・アーレントを介して森が指摘している〝ユダヤ人の無世界性〟という指摘だ。これが「黒ノート」の中でもハイデガーの反ユダヤ主義の言質として過大に扱われているが、それは「戦後にハンナも同じ事を言っている」として森は、それをハンナは自己批判的に展開し近代全体の問題として考えようとした、と述べる。

 またトラヴニーが講演で宇宙飛行士ガガーリンに関するレヴィナスのエッセイをもちだし人間が宇宙に飛び出していく時、大地から離れて、場所を持たない状態になる、そうした新しいテクノロジーのあり方を肯定し、ユダヤ的なものと繋げている、ことも森は紹介する。〝無世界〟ということをハイデガーは批判的に捉えるが、ガガーリンのほうがユダヤ的で、こちらの方向にこそ見込みがある、としている轟 孝夫の「つまり持って行く方向は正反対ながら実は同じことを言っていると考えれば、ハイデガーのユダヤ論も、あながち的外れではないんじゃないか」というトラヴニーへの応答も。

 先のブログでは田辺 元のハイデガー観も取りあげた。彼や九鬼周造はドイツでハイデガーと接し自らの哲学を展開している。そのとき彼らはバックグラウンドとしての日本を強く意識していた。それはドイツへ留学し、お勉強する事とは異なる〝対決〟ということだ。それはハイデガーがニーチェと対決することで近代西洋哲学の転倒を画策したと同様の姿勢ともいえる。齋藤は「新カント派やフッサールに対して、ハイデガーが取った立ち位置を考えてみると、自分の足下を見るというか、ある種の土着性から自らの思考を立ち上げていこうとした。そういうスタイルだったわけです。そこがユダヤ人や日本人留学生たちに、ある衝撃を与えたんじゃないかと思うんですね」と話す。

 鼎談には出てこないが、このブログでもかつて言及したフィリップ・ラクー‐ラバルトがハイデガーが初期マルクスを読んでいたのではないか、という「貧しさについて」(藤原書店)という晩年の論考も含めてハイデガー哲学の全容を考察するうえで更に思索していかねばならない本質的な問題がある。

 先に紹介した「時代を読む」(潮出版社)の中で吉本隆明は自著の「死の位相学」(潮出版社)で西欧の死生観を象徴するするものとしてハイデガー、サルトル、K・ロスを取りあげている。その鼎談のタイトルは〝宗教と科学の接点を問う〟だ。そのような考察も含めて戦後から現在、将来を射程に思考していかねばならない一つの重要な論点は〝技術(テクノロジー)〟である。戦後すぐにハイデガーは原子爆弾や原子物理学を通してそれを熟考している。その論点はアカショウビンの残り少ない生で些かなりとも思索を深めていきたいところだ。

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2015年8月26日 (水)

間違っているという可能性

 先般亡くなられた鶴見俊輔さん(以下、敬称は略させて頂く)の事が気になり何か書かねばと思いながら一カ月が過ぎた。きょう本棚を整理していてたまたま1991年に発刊された「時代を読む」(潮出版社)を幾つか拾い読んだ。ホスト役の鶴見、河合隼雄がゲストを迎え鼎談する。その中で吉本隆明、加藤周一のものが面白い。特に加藤とのものは実に刺激的だ。タイトルは「日本文化の創造力を『日本文学史序説』に読む」。

 その中で加藤は日本文学史の転回点を平安前期、鎌倉、徳川幕藩体制が固定する時期、幕末維新におく。平安時代に世界に先駆けて小説がで出てくる理由を他の国よりもはるかに閉じた宮廷社会が成立したことが第一の条件とする。万葉集の中に仏教の影響が95%ないことは、一体そこで何が起こったのか考えなければならない、と。また日本の彼岸的な思想の流れの中でいちばんの例外が鎌倉仏教という指摘も加藤ならではだ。『古事記』、『万葉集』いらい今日に至る日本的世界の中で打ち込まれた楔が鎌倉時代だった。加藤はそれをきれいな形で鋭く表現したのが法然という。歴史観念が出てきたのは鎌倉時代。『愚管抄』が最初の歴史意識だと見なす。日蓮が出て国家、政治と正面からぶつかる。それまでの日本仏教は全部、禅宗でさえ鎮護国家という点では同じ。ところが日蓮はそれをひっくり返す。仏教の道具が国家。それを断言し主張したのが日蓮と道元と言うのが面白い。それは両者の本質を言い当てていると思われる。日蓮と道元の出自は中産階級ではない。道元の出自は皇族で日蓮は旃陀羅の子だから二人とも集団のアウトサイダー。日本というムラ社会を突き抜けている。ムラを突き抜ければ、いろんなことが突き抜けられる。日蓮も道元も一連のインテリたちと異なり中国崇拝ではない。江戸時代の終わりまで中国にコンプレックスのないインテリゲンチャなんていない。このような加藤の指摘はいまさらながら実におもしろいではないか。

 加藤は道元の男女観についても指摘している。法然いらい彼らは徹底して男女の区別をしていない。道元は経典のどこに男女の区別を説いているか、無学文盲の一人の少女といえども悟りのぐらぐらな大僧正より偉い。高野山の女人禁制などは仏法を知らざる痴人の狂言に過ぎない、と。その言や好し。アメリカ仕込みの戦後フェミニズムも日本のフェミニストはどうして道元をかつがないのか。ムラを突き抜ければムラの中の上下関係、秩序、差別、すべてが相対化されるという指摘は加藤周一の面目躍如だ。

 先のブログで引いた内村鑑三も、加藤は外国での経験を生かしたのは彼と鶴見俊輔ぐらいだ、と讃嘆する。道元もそれを突き抜けたから漢文でなく日本語で書いた。内村も私費で行った米国のニューイングランドで内村自身のキリスト教を見つけた。そこで内村はアメリカか日本かという問題は二義的になった。内村にとって一義的なのはロマ書と指摘するのも正確だ。当時、洋の東西でロマ書を根底的に共時的に読み抜いたのは内村とカール・バルトだ。このあと面白いのが加藤の小林秀雄批判だが、それは次の機会に。

 先日、鶴見が亡くなった時の毎日新聞(7月25日27面)の〝評伝〟で吉本隆明のベ平連に同調する鶴見批判、「社会主義国家群に対する同伴運動で、自立していない」に対する鶴見の回答が鶴見らしい。「自分が間違っているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないというのが、基本的な考えです」というのも如何にも鶴見らしい。

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2015年8月23日 (日)

怕ろしきもの

 死は怕ろしいもの、と内村鑑三は述べ、その理由を「霊魂が肉躰を離れて他に宿るべき躰を得る目的がないからではありませんか」と、明治33年4月16日に発刊した「宗教座談」2014年 岩波文庫 p95)で答えている。同書は、キリスト教徒内村鑑三が「宗教は事実であります。議論ではありません、信仰の事実なくして宗教は議論することの出来るものではありません、この座談の如き実に取るに足らないものでありますが、しかしこれとてもまた事実なしの宗教談ではないつもりでございます」と〝口啓き〟の序で記している内村の率直な信仰体験の書である。

 このような言説はアカショウビンに実に刺激的なものとして響く。それは哲学的に死を把握しようとするのではなく一人の信仰者として考え抜かれた声として。

 先日、外の陽光を浴びようと衝動的に上野の国立西洋美術館を訪れた。何度か訪問している常設展は訪れるたびに新たな刺激を与えてくれる。今回はたまたま会場の一角でル・コルビュジエ展が企画されていた。絵画作品を集中的に見るのは初めて。実に強い刺激を受けた。一人の芸術家の眼にはモデルや世界はかように不可思議に映る。それが芸術といえばそれまで。そこには人という生き物が棲む世界と時間がどういうものなのかのヒントを与えてくれることには注意しよう。そこでは我々は通俗的な日常で見失っている根源的なものを伝える豊饒な実例に遭遇すると確信するからだ。何とも痛烈にデフォルメされた女たちがそこには描かれている。

 ル・コルビュジエの作品中で死は怕ろしいものとは異次元のものとして理解する契機を与えてくれる。それは私たち人間とは何か、私たちが棲む娑婆あるいはハイデガーが説く<世界>あるいは<世界・内・存在>がどういうものかというような。それはまた、内村が聖書を介して捉えた死生観が一人の芸術作品としてアカショウビンには啓示の如くに。しかしこの啓示は、すぐ消え失せる。アカショウビンの現在と今後の生はそれを縁に繰り返し呼び戻し血肉化することで新たな次元に飛躍する努力といってもよい。

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2015年8月16日 (日)

お茶漬けの味

 小津安二郎監督の「お茶漬けの味」(1952年)を久しぶりに観直した。以前はテープに録画しておいてたまに見たものだ。しかし画質が悪くそれに長尺(115分)。しかし、こちらはデジタル・リマスター版で画質はかなり良くなっている。それに、ここのところ「王将」などで淡島千景を改めて見直しているのでその興味もあった。

 野田高悟との共同脚本は、さすがに良く練られている。笑いの仕掛けも幾つか。主演は佐分利 信、木暮実千代。若い鶴田浩二、小津組の笠 智衆もパチンコ屋のオヤジを演じている。前年の「麦秋」、翌年は「東京物語」と撮っているから笠 智衆が小津作品の中で存在感を次第に増してゆく過程も確認できる。

 今回、発見したのは佐分利 信の役柄の名前が佐竹茂吉になっていることだ。これは有閑マダムという設定の小暮の役と合わせると斎藤茂吉夫婦が一つのヒントになっているものと思う。佐竹は長野県出身となっているがネコ飯(作品では犬が食べるようなとなっているが)の好きな地方出身で海軍の軍歴をもつ。それは後の小津作品にも出てくるお馴染みの設定だ。佐竹は技術者という設定になっているが、茫洋とした実直な性格で仕事に生真面目な姿は、事実はともかく茂吉のようだ。茂吉の「柿本人麿」の読解は途中で中止している。これはそれを再会せよという天の声かもしれない。

 それはともかく、この作品は小津が戦時中1939年、中国戦線から帰国第一作で撮る予定だったという。ところがシナリオが内務省の検閲にひっかかり却下された。それを戦後に設定を変えて出来上がった。周知の通り、小津作品には先の大戦の戦争の影が潜みさりげなく挿入されている。検閲という問題は戦後にGHQが担い多くの作家や画家、芸術家の作品を阻害してきた。このブログでは吉田満の「戦艦大和ノ最期」を介して検閲の問題にも言及した。それはまた別の機会に再度取りあげてみる。

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2015年8月13日 (木)

両親の墓に詣でる

 昨日は天気が崩れるとの予報で、お盆の迎え日の前に両親の墓に詣でた。午前中に出て昼過ぎに都郊外の最寄り駅に到着。ちょうどバスの発車時刻に間に合った。一時間に一本だからラッキーだった。バスに揺られて久しぶりに見る街並みに心和らぐ。天気は不安定だが雨にはなってはいない。墓苑の事務所に立ち寄り孔雀の小屋で写真撮り。亡くなった叔父と母と来たのはいつだったか。あの時は従妹も来てくれた。手桶に水を汲み墓へ。お盆前とあって墓参者は少ない。遠く離れたところにひと組の家族がいるぐらいだ。

 今年は母の七回忌。月日の経つのは早いものだ。アカショウビンが大阪に引っ越して約半年の介護で母は逝った。父の死後一人暮らしは気軽だが寂しくもあったろう。亡くなる何年か前に東京で同居の話もした。先に千葉に引っ越し従妹の近くに住んでいた叔父の提案で。母に打診したが大阪のほうがいいと言う。一人暮らしの長男に対する気兼ねもあったろう。気の強い女だったから強がりも感じたが敢えて母の言葉に従った。

 墓を清め読経し弟に送る写真を撮った。墓を後にしバスを待つ間に霧雨が降りだした。しばし墓苑の事務局の休憩所で雨宿り。先月から10年ぶりに吸い出した煙草を一服しバスで駅まで戻った。

 帰りは中野駅で途中下車。学生時代に棲んでいたアパートを訪れた。10年前に訪れた時は既に建て替えられていたが更に周辺の風景が様変わりしていた。40年の月日は走馬灯の如し。その時の記憶が間欠的に思い起こされた。3畳のアパートで上京した両親と一日寝起きしたことを想い出した。木造だったアパートはマンションに建て替えられていたが大家は同じ名前。不思議な縁だったが大家夫婦は奄美出身の家に夫婦養子で入ったということだった。よく食事をしたブロードウェイの横町をぶらぶらした。近くには中古レコード店が現在も健在。よく続けているものだ。記念に写真を撮った。当時、近くに住んでいた友人に電話。「此の世の見おさめに行ってきたよ」と話すと苦笑していた。

 9月は母の七回忌で再訪できればよいが手術後の闘病で行けるかどうか。冥土へ行く前に済ませておく事は一つ一つ片付けねばならない。

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2015年8月11日 (火)

「貧しさ」とは何か

  「政治という虚構-ハイデガー,芸術そして政治」(浅利 誠訳 ㈱藤原書店 1992年4月30日)の著者、フィリップ・ラクー=ラバルトは、「ハイデガーの「貧しさ」」(2007年 藤原書店)でドイツの国民詩人ヘルダーリンとハイデガーを介してマルクスを論じている。ラクー=ラバルトが注釈する深読みというか裏読みとも思える思索に共振してアカショウビンも屋上屋を重ねる愚を恐れるものの再考したい。

 ハイデガーが1945年のドイツで身近な聴衆に語った意図を探ることは苛烈な時代を生きた有数の思索者、哲学者の豊饒とも孤高とも思われる思考に分け入ることである。異民族の抹殺を踏まえて自民族の世界支配を目論んだナチズムに関わった哲学教師の戦後の思索、考察、論考は再考、再々考に値する。そこでは人類史を俯瞰し有とも存在とも訳される概念を生涯かけて思索した稀有の思考があるからだ。マルクスに深く影響されたと推察されるラクー=ラバルトがユダヤ人という出自を込めて読解を試みるハイデガーというナチと関わった哲学者の思索に踏み込み述べる晩年の論考は後に続く者たちにとって避けて通れぬ通路である。

 ラクー=ラバルトはハイデガーの「貧しさ」という演題の講演について当時ハイデガーが初期マルクスの論考を読んでいた筈だと推察し「プロレタリアート」という概念との関係性を指摘する。それはハイデガーがキーワードのように使用する「精神」「本来的」という術語に対するリオタールやアドルノの異論、反論とも呼応する。

 ハイデガーは冒頭、ヘルダーリンの次の言葉を引用する。

 我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった。

 そしてギリシア以来の西洋史に於ける「精神は質料の対立項だといわれて」いる〝精神〟の来歴が述べられ、「ロシア・コミュニズムと名づけているものは、ある精神的な世界に由来するのだと、まったく誇張なしに言えるのである」と説く。更に「これは当時の時代情勢に於けるひとつの事実を歴史学的に確認した言葉では決してなく、<存在>そのもののうちに隠された生起の、つまり来るべきもののうちにまで届くはるかな射程をもつ生起の、思索と詩作による命名である」と述べる。(同書p16)

 ラクー=ラバルトが指摘している次のハイデガーの独特の考察は熟考しなければならないだろう。

 しかしながら、貧しさの本質はある<存在>のうちに安らっている。真に貧しく<ある>こととは、すなわち我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で<存在する>ことを言う。真に欠いているということは、不必要なものなしには<存在>しえないということである。したがって、まさしく不必要なものによってのみ所持されているということである。しかし、不必要なものとは何であろうか。必要なものとは何であろうか。必要であるとはいかなることなのか。必要とされるのは、必要にもとづいて、必要を通じて到来するものである。ではいったい必要とは何なのだろうか。必要の本質は、この語の根本的意義にしたがえば、強制である。喫緊のもの、必要とされるもの、強要するものとは、すなわち強制するものであり、我々の「生」において、生を維持せんとする諸々の欲求を無理やり引き出し、我々をもっぱら、これらの欲求の充足のうちへと押し込めるところの、強制するものである。 したがって不必要なものとは、必要から到来するものではないもの、すなわち強制からではなく、自由な開かれから到来するものである。(同書p18)

 それは、我々日本人、東洋人、ひいてはアジア人にも熟考を迫る思索である。

 たとえば飢饉であったり、収量不足の年が続くことが危険なのは、西洋の命運全体とその本来性の観点からするならば、おそらく、多くの人間が生命を失うからなのではけっしてなく、むしろ生き延びる者たちが、生の糧とするものを食べるためにのみ生きているからなのである。そのような「生」は、独自の空虚さにおいて自分自身のまわりを空転する生である。気に留められることもまずはなく、またしばしば自分の問題として引き受けることすらない退屈というかたちで、生、空虚さによって取り囲まれる。こうした空虚さのなかで人間は荒廃する。つまり貧しさの本質を学ぶための道程において、おのれを見失うのである。  コミュニズムという不適切な名称のもとで、歴史的な世界の命運として切迫してくるものによって、我々が貧しくなることはない。我々は、ただ、我々において精神的なものにすべてが集中するときにのみ、貧しく存在するのだ。(同書p23 「存在する」は読点で強調されている)。

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2015年8月10日 (月)

貧しさと良心

 何という善意!市川崑監督の「かあちゃん」(東宝 2001年)は、そのように溜息をつくしかない作品だ。原作は山本周五郎。天保末期の江戸庶民の人情を何の衒いもなく描いている。ユーモア交えた落語の人情噺の一席、といってもよいが、それで済ますこともできない。ここまで善人たちを描いて監督は何を作品に込めようとしたのか。俗人はそんなひねくれた思いにも堕ちこむ。

 冒頭、「老中水野忠邦による改革の効なく、過酷な課税の増徴、飢饉による米価の騰貴、浮浪者は増加し、江戸下層階級の窮乏は、さらに激化」との縦文字の説明。そんな時代背景での物語だ。筋は敢えて紹介しない。巨匠の小品として済ますこともできようが、そこには人間という生き物のもつ可能性を一筆で描いた筆の運びを楽しむこともできようか。

 脚本は和田夏十と竹山洋。音楽、宇崎竜童。タイトル画を和田誠が書いている。これが実に良い。主演、岸恵子。貫録である。小沢昭一、中村梅雀、春風亭柳昇、コロッケ、江戸家小猫ほかの脇役陣。

 この作品の少し恥ずかしくなるような、人間の善意、良心とでもいうものは原作者と脚本家の紡ぐ物語の中だけではなく、私たちの周囲にもあるのかどうか。ないともいえず、さりとてあるともいえないような。そんな作品を巨匠は何で撮ったのか、という疑問も世俗にまみれた者の濁った心には、ぼんやりと湧くのである。

 そこで何か督促されるのは貧しさと良心ということになるだろうか。もちろん、その裏には人間の悪という形而上学が待ち構えている。何やら不可解な感想で恐縮。

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2015年8月 9日 (日)

仇ば討つとよ

  表題は、本日の読売新聞に掲載されていた美輪明宏さんのインタビューで、軍国少女だった女子挺身隊の姉上が8月15日の玉音放送を聴いたあと、大声で泣き伏し美輪さんに話した言葉だ。「あんたたち、大きゅうなったらこの仇(かたき)ば討つとよ」。

 きょうは長崎の原爆投下日である。11時2分、アカショウビンも瞑目し合掌した。この日を迎えるたびに井上光晴の小説を映画化した黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」(1988年)を想い出す。幸せな平凡な家族の日常が一瞬にして消滅した地獄を作品化した佳作だ。都内では監督作品が上映されているらしい。アカショウビンも数年前、晩年の数作を凝視した。それは黒木監督の渾身の作と受け取った。

 昨年、5月に仕事で二度目の広島市を訪れた。翌日は休日で市内のホテルから路面電車で原爆ドームへ赴いた。写真を撮り、ぶらぶら歩いて記念館を訪れた。その途中、偶然に1978年8月に同所を訪れた草野心平の詩を刻んだ石碑を発見した。その記事を再掲し峠三吉の詩と共に70年前の地獄と今日の平和の稀少を肝に命じたい。

   天心の三日月の上に

    幻でない母と子の像

   これこそ永遠の平和の象徴  

   童子よ母の愛につつまれて

    金のトランペット吹き鳴らせ

   天にも地にも透明な

   平和の調べ吹きおくれ  

   どんな未来がこようとも  

    頬っぺいっぱいふくらまし

   No・more・Hirosimaの  

    金のトランペット吹き  鳴らせ

 

 記念館に至る間には巨大な蘇鉄が植わっている。陽が高くなる前の空気は少し肌寒いくらいだ。生き残った被爆者の多くの人々があの記憶を思い出したくないと言う。何と当日の写真は3枚しかない。新聞記者が撮ったものという。映像は一切残っていない。  最近の「美味(おい)しんぼ」論争でも同様に、そのような苛烈な記憶を脳裏から消し去りたいというのは先の大戦で殺し合いの現場を経験した兵士達にも同じだ。しかし人の業はそれを許さない。それは懊悩とも悶絶ともいった言葉では尽くせないが人が記述する言葉でその文を介して苛酷な体験が書き残せる。なぜなら、人という生き物は、あるいは存在は言葉という家に棲むからだ。そこで全精神を最大限に働かせて究極まで辿りつこうという意志と辛苦が不可欠なのだ。

 次に、峠三吉の詩を写す。1963年8月6日 三宅一子

 ちちをかえせ ははをかえせ  

 としよりをかえせこどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる

 にんげんをかえせ  にんげんのあるかぎり

 くずれぬへいわを  へいわをかえせ

 この叫びを心底から聴き取らねばならぬ。そこには聴く者の想像力が試される。 (以上、昨年記事の再掲)  

 昨日、立花隆さん(以下、敬称は略させて頂く)がNHKテレビで先の大戦を振り返り山口市の香月泰男美術館を訪れ作品を鑑賞し、それをもとに故郷の長崎の大学生たちと対話していた。立花は空襲で焼け焦げとなった黒い屍体と香月がシベリア抑留時に満州を経てナホトカまで帰る途中で中国人に生皮を剥がれ切り刻まれた日本人の無慚な赤い屍体を作品化した作品を比較して論じる。黒い屍体で私たちは被害者としての残酷を訴える。しかし大事なのは残忍な殺し方に込められている、加害者としての日本人への中国人の怨みを忘れてはならないということだ。香月は帰国して被害者意識ばかりが強調される日本人の姿に違和感を感じたという。香月の作品には加害者としての日本人を意識する姿勢が明らかだ。戦後70年、私たちは、このような視覚を含めて現在から将来を生き抜かねばならないのだ。  

 美輪の姉上の言葉の仇の対象は米国だ。それは米国に原爆を落とし復讐することで済むものではない。憲法を堅持し、それを世界に発信し説いていくことだ。それは、かつての敵国と同調し世界で武力を行使することでなく、歴史の貴重ともいえる日本国憲法を元に戦争をせずにすんだ戦後70年の繁栄の光と陰の本質を後世に、世界に伝え主張していくことだ。

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2015年8月 8日 (土)

ありがとうな、また、会おうの

 「おくりびと」(2008年、滝田洋二郎監督)を市立図書館から借りてきて観た。物語のなかほどで、風呂屋のおばちゃん役の吉行和子さん(以下、敬称は略させて頂く)が急死する。表題は、彼女を火葬する常連客の笹野高史が死者の息子の杉本哲太に語りかける言葉である。

 6年前に逝ったアカショウビンの母親は「死ぬのは怖くないよ」と息子に話すともなく呟いた。昨日、都内の病院で胃ガンに続き食道ガンを告知された。一難去らずにまた一難である。仏教でいえば釈尊は人の生涯は生老病死と捉えた。イエスと神を信じた内村鑑三は霊魂の不滅を説いた(「宗教座談」 2014年4月16日・岩波文庫)。釈尊の悟達はアカショウビンの現実となって迫っている。

 還暦を過ぎる前後からアカショウビンの周辺には様々なことが起こった。還暦同窓会で21年ぶりで帰郷する時に中学時代の同窓生T君を誘ったら奥様がTは2年半前に亡くなりましたという。その前には会社の後輩のUさんが32歳で亡くなった。その前後に高校の恩師のK先生が亡くなられた。今年は仕事で縁あった経営者が二人亡くなり葬儀に参加した。先日はアカショウビンが胃ガンの検査入院した日に知人のSさんが脳内出血で急死した。我が身の余生もいくらもないだろう。メメントモリ。死を忘れるな、という言葉が共振して響く。

 物語で笹野は、次のように故人の息子の杉本哲太に語りかける。「死ぬってことは、終わりということでなくて、そこを潜り抜けて次へ向かう、まさに門です。あたしは門番として、ここでたくさんの人を送ってきた。行ってらっしゃい。また会おうの、て言いながら」。杉本が号泣しながら語りかける「かあちゃん、ごめんの、かあちゃん、ごめんの」の言葉と姿はアカショウビンの声と姿でもあった。女房と孫の顔も見せられなかった馬鹿息子の。

 死とは何であるのか。人の死とは何か。新たな思索を督促される。

 この作品で主演の元木雅弘の奏するチェロの響きが心に沁みる。アカショウビンは小学校のころ学校の小さなオーケストラで5年生のころチェロを任された。敬愛する詩人の宮澤賢治もチェロを弾いていた。チェロはアカショウビンにとって特別な楽器なのである。その響きは人の声のように奥深い。今宵はCDでバッハの無伴奏チェロ組曲を聴こう。

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2015年8月 5日 (水)

三国連太郎の坂田三吉

 伊藤大輔監督の「王将」はかつて観たつもりだったがアルツハイマーの進行のせいか殆ど想い出せなかった。「王将」の名作は阪東妻三郎(通称、阪妻)。これは将棋ファンとしては見逃せない。しかし三国連太郎の坂田三吉も素晴らしい。というより、小春役の淡島千景が見事で三国を引き立てている。森繁久彌と演じた「夫婦善哉」も、先日見た「日本橋」も、淡島千景という女優の魅力を改めて知らされているところだ。

 冒頭、村田英雄の「王将」が流れる。西條八十作詩、船村 徹作曲の名作である。アカショウビンは、かつて上野のスナックで飲むとラスト・ソングは「王将」だった。地方から東京へ出てきた少年や青年は大阪人に限らずこの心意気をもったものだ。歌詞の通り、明日は東京へ出て行くからは何が何でも勝たねばならぬ、のである。

 将棋の指し方は素人には難しい。その指導には名人に香車を引いた升田幸三が担当したというのも将棋ファンには嬉しい。脇役陣もベテランたちが固める。花沢徳衛、殿山泰司らが務める。音楽は伊福部 昭。これが素晴らしい。黒沢 明がいみじくも語ったように映画とは映像と音楽の掛け算なのである。

 本編は二人の娘と乳飲み子を抱えた淡島・小春が、チンドン屋と並行して通りを歩くシーンから始まる。昭和の風景が懐かしい。娘のたまえが古着屋に自分のベベ(着物)を見つける。父親の三吉は娘の着物を古着屋に売り飛ばし素人将棋大会の参加料に替えたのである。

 この将棋極道がプロになり東京の関根名人に勝ち越すまでに成長する。それは女房を泣かせながら。それが夫婦共に信心に目覚め日本一の将棋指しになる。太鼓を叩き 最初は婦唱夫随、後には夫唱婦随で南無妙法蓮華経とお題目を唱える姿が何とも勇ましく涙ぐましい。伊藤監督の演出が光る。先日の「おしどり駕籠」の不満はこの作品で解消された。

 昨年、仕事で広島へ出張した帰りに大阪へ立ち寄った。以前、通天閣の下の将棋道場で指したのを思い出しながら道場を探したが見あたらず聞けば何年か前に閉めたという。時代の変化に改めて気付いた。来週は手術である。生還すればアカショウビンも新たに闘志をもやし余生を生きたい。

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2015年8月 4日 (火)

懐かしき昭和

 マキノ雅弘監督の「おしどり駕籠」(東映)を観て表題のような感想をもった。ひところ同監督を含めて東映任侠映画ばかり観ていた時期があった。この10年の間である。アカショウビンの学生時代にはすでに下火で日活は青春路線からポルノ路線に急展開していた。下宿していた東京・中野には〝ひかり座〟という劇場があって日活や大蔵映画のポルノ映画がかかっていた。新宿には国際劇場という邦洋専門のポルノ映画館があった。その頃は昭和館というヤクザ映画が多くかかっていた劇場も賑わっていた。マキノ作品がそこでかかっていたか記憶はない。アカショウビンが集中してマキノ作品や山下耕作監督などの作品を映画館やDVDで改めて観だしたのはこの10年間である。

 監督独特の演出は随所に見られるがテンポがぬるい。退屈と紙一重のところで作品は支えられている。和製ミュージカル仕立ては配給会社経営陣の営業戦略だろう。「次郎長三国志」でも鶴田浩二ら出演者が歌を歌っていた!こちらのヒロインは美空ひばりである。主演は中村錦之助。音楽は米川正夫。予告ではオーケストラと合唱が指揮者(米川氏本人か不明)のもとに音楽を録音している。  

  冒頭のシーンが凄い。「総天然色 東映スコープ」の横幕文字入り。作品全体のテンポのぬるさは演出と脚本、編集の責任である。原作と脚本は観世光太(以下敬称は略させて頂く)。編集は宮本信太郎。桂長四郎の美術は素晴らしい。三上剛の衣装も。配役は月形龍之助はさすがの貫録だ。セットは任侠映画でも大活躍するマキノ好み。ここで主役とヒロインが何ともまったりした恋のやりとりをする。ひばりの台詞、仕草、所作はマキノの厳しい指導が繰り返されているだろう。それはそれでよいのだが、全体のテンポが今の若い観客にはぬるすぎるだろう。アカショウビンがそう感じるのだから。

  それにしても昭和と平成を映画作品で区別するならこのテンポという音楽用語が有効のように思える。音楽でも大事なのはテンポなのだ。これを微妙に動かし変えて音色(音にも色があるとは!)に色合いを自在に変える。マキノの監督としての統率力は言わずもがな。しかし何とも間の抜けた作品になったのは監督の責任である。

 むしろ日活青春映画のほうがテンポは小気味よい。「いつでも夢を」は吉永小百合、浜田光夫コンビ。たくましく生きる定時制生徒たちの青春を描く。しかし、そこに「キューポラのある街」で突きつけられた在日の問題や少女の性の不安などの社会性や普遍性のある問題意識は欠如している。昭和という時代、少なくとも戦後の昭和には現在の政治状況を含めて政府が隠蔽し国民が健忘症になり、あるいは無意識下に沈められた多くの歴史的事実があることはいうまでもない。

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2015年8月 2日 (日)

ベートーヴェン作品30の3曲

 先日、新聞の音楽評で紹介されていて棚からシゲティとアラウ盤(1944年・ライブ)を取り出し繰り返し聴いている。何度か書いたがシゲティが録音した、この盤と同じヴァンガード盤のバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータはアカショウビンにとって音楽の原点の如き録音、演奏である。確かに原点は存在するのだ。

 新聞評ではベートーヴェンの穏やかな時間が表出されている作品といった主旨だった。特にイ長調の第6番の2楽章(アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ、二長調 2/4拍子))はハイドンやモーツァルト風とも言ってよく、ロシア皇帝に捧げられ気品を大切に作曲したという含みもあるかもしれない。CD評者の藁科雅美氏は「ベートーヴェン的な偉容には乏しく」と書かれているが、ベートーヴェンの柔軟でたおやかなな感性が現れた作品とも思う。

 7番はハ短調。ベートーヴェンの調性である。藁科氏によると、≪春≫(作品24 第5番)に次いで広く親しまれている作品だ。第2楽章はアダージョ・カンタービレ、変イ長調、2/2拍子)。同じアダージョでもベートーヴェンらしさが色濃く出ていると思える。既にこの頃はベートーヴェンは自らの音楽を自信をもって表現する境地に達している。ハイドンやモーツァルトを吸収、咀嚼、解釈し新たな創造の源泉にしているのだ。

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