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2015年7月 7日 (火)

幻影の人

 昨年だったか、ここ数年か、西脇順三郎の「旅人かへらず」を注釈をしながら精読しようと思いたったことがあった。社会人になり最初に勤めた音楽事務所を辞めアルバイトで食いつないでいた頃に、この詩人の作品は全部読まねばと心に決めた。『詩と詩論』は古本(筑摩書房 昭和50年)で揃えたが未だに全巻読み切っていない。少年の頃から学生の頃に戦慄した詩と詩人といえば宮澤賢治と吉本隆明、西脇順三郎といってもよい。しかし吉本は定本詩集いらい読んできたのは思想論、評論が殆どだった。余生の日に此の世の残りの時間は西脇を読むことに費やすのも天の声かもしれない。そこから賢治の未読の詩を読めば娑婆での時間はいくらか充填され冥土への土産になるかもしれぬ。

 西脇の〝はしがき〟によれば自分の中には種々の人間がひそんでいて、「まず近代人と原始人がゐる」。「ところが自分のなかにもう一人の人間がひそむ」。それを詩人は「幻影の人」と呼び、永劫の旅人とも考える。西脇はそれは原始人以前の人間の奇跡的に残っている追憶であろうとして、永劫の世界により近い人間の思い出であろう、と記している。

 昭和22年8月20日出版されたこの作品は保田與重郎の散文と共に戦後まもなくの詩人の作品としてアカショウビンの生涯の通奏低音として響き続けている。人が死に向き合う時に<私>とは何か、と同時に<死>とは何か、と問うこともあるだろう。ハイデガーは先に引いた「カッセル講演」でハイデガー哲学の専売特許ともいえる有名な〝死の先駆的覚悟〟という耳慣れない用語を次のように聴衆に説明している。

 可能性としての死を耐え抜くということは、死が純粋にありのままのすがたで差し迫るという仕方で、つまり、いつなのかは未定であり、来るという事実は確実なものとして差し迫るという仕方で、死を現にもつということです。この可能性を可能性として成立させるということは、この可能性を実現する―たとえば自殺することによって―ということではありません。そうではなくて、この可能性にむかって先駆する[自分の前にあるこの可能性にむかって走る]ということなのです。(「カッセル講演」p98~p99)

 これでもハイデガーの言おうとしていることは難解かもしれない。続いてハイデガーは日常的な感情で言えば絶望的なところで人には二つの選択がある、と述べる。

 現存在は、世界のうちで自分が出会うものにもとづいて決断するか、それとも、自分自身にもとづいて決断するか、どちらかの決断を下すことができるのです。

 そして次のように述べる。

 現存在の根本的意味が可能性であり、可能性そのものを存在しとらえることができるという点にあることを、カントは見ぬいていました。(p100)

 「幻影の人」とは西脇という詩人が可能性そのものを、旅人=〝水霊〟として存在しとらえた作品ともいえる。かつて暗誦した最初の一節を認知症が進む前に書き留めておこう。

旅人はまてよ

このかすかな泉に

舌を濡らす前に

考へよ人生の旅人

汝もまた岩間からしみ出た

水霊にすぎない

この考へる水も永劫には流れない

永劫の或時にひからびる

ああかけすが鳴いてやかましい

時々この水の中から

花をかざした幻影の人が出る

永遠の生命を求めるは夢

流れ去る生命のせせらぎに

思ひを捨て遂に永劫の断崖より落ちて

消え失せんと望むはうつつ

さう言ふはこの幻影の河童

村や町へ水から出て遊びに来る

浮雲の影に水草ののびる頃

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