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2015年7月 8日 (水)

死の先駆的覚悟に関して

 先日の記事で引用したハイデッガーの「カッセル講演」(後藤嘉也訳 2006年12月11日 平凡社ライブラリー)で、先駆的に死を覚悟する現存在について、もう少し詳しく読み込んでみよう。

 ハイデッガーは、可能性としての死を耐え抜き(耐え抜きには強調の読点が付されている)、この可能性にむかって先駆する現存在は、「そのとき、世界は崩壊し、崩れ落ちて無にな」(p99 4行~5行)った場に至る。そして、そこでは「世界をもとにして生きるという可能性を、私は自分自身にもとづいて終わらせなければな」(同9行~10行)らなくなる。

 そしてハイデッガーは、そのとき現存在の目の前には選択する(ここでも選択するに読点が付されている)可能性が与えられている、と述べる。現存在に世界をもとに生きる可能性はなくなり選択する可能性が与えられる。なぜならカントが見抜いていたように現存在の根本的意味は可能性であるからだ。自分自身を選択することによって世界という公共性のなかに迷い込んで自己を喪失している状態から自分を連れ戻す可能性が開かれているというわけだ。

 またハイデッガーは現存在が自分と選択を選択したということは、「決意している(ここも読点)《entschlossen sein》ということを意味すると言う。それは死ぬ決意ではなく生きる決意だ、と。さらに決意しているということは、責任を選択する(ここも読点)ことである、と。この一連の言説は難解で飛躍があるように思える。

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