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2015年7月21日 (火)

体験版 医療の現在⑨

 きのうは先日お亡くなりになったSさんの偲ぶ会。荻窪の焼肉屋で。Sさんと共通の飲み仲間のO氏がオーナーとなって今年オープン。Sさんらと開店祝いに訪れてから仲間もちょくちょく訪れている。そのうち7~8人が集まった。葬儀の事後処理などの裏話など故人の不徳、人徳で賑やかな偲ぶ会になった。
 本日は先日検査入院した市立病院へセカンド・オピニオンの相談。先週下見した都内の病院へ提出する資料の作成をお願いに。それにしても早く手術し社会復帰しなければならない。しかし看護師さんは資料を用意するのに一週間から十日間かかるとおっしゃる。そんな悠長なことでは困りますがな。そのうちこちらは体力的にも経済的にも再起不能になってしまいまっせ。

 以下のかつての医療ミスの事例は医療技術・システムの進歩で現在は少なくなっているだろう。しかし当時とちがい内視鏡などの新技術が開発されると新たな事故も起きる。医療現場も完璧ではない。そこでわれわれは特にアカショウビンはひとりの患者として諦めも油断もならないと自らを励まし戒めるのである。

 市立病院で〝食道ケイシツ〟(小さな袋状のもので食道の他にも管状の内臓諸器官に現れる。多くは先天性で時には後天的に発生する場合もある)と診断されたKさんは、知人の紹介でT医大で診察を受け、手術しないと破裂して死亡する危険があると言われ手術を決意する。しかし手術後20日足らずでKさんは死亡。妹のEさんは執刀医のA教授の手術の失敗を詰る。

 妻のYさんも「今まで元気でぴんぴんして働いてくれていた人が、手術をすすめられて、かえって穴をあけられて死んでしまったなんて、殺されたと同じです。大事な一家の大黒柱に死なれて、私や三人の子供たちはこれからどうして生きていったらいいのですか。― それに、一言も、申しわけなかったとも、至らなかったとも、あやまってくれないではないですか」と。これにA教授は、最善をつくし手術にミスはなかったと答える。Yさんは更に「それではなぜ死んでしまったのですか。最善をつくしたといわれますが、先生は手術はやりっぱなしで、手術後の大切な三日間は一度も診に来てくれず、四日目に容態が急変して危なくなった時も診察にこられず、どうして最善をつくしたといえますか」とA教授の対応に怒りをぶつける。

 K教授がそれに何と答えたか。「誠にお気の毒に思います。けれども患者が死ぬたびに自分で責任をとっていたら医者の仕事はやっていけません」。絶句する。さらに「お金をだせというのですか。出せといえば出しますが、でも私は失敗したから出すというのでは出しません。お香奠としての、その程度なら出しましょう―」。(日本人の死にかた」丸山照雄)この論考の初出は中央公論1971年2月号。これが「反情況の砦から」(1973年4月 伝統と現代社)に収められた。引用した箇所は同書p210~213である。

 正に医療とは果たして患者を生かすのか殺すのか?根本と本質を問わねばならない。

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