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2015年6月 8日 (月)

 保田與重郎と棟方志功

 昨日の、毎日新聞の書評欄に長部日出雄氏の「棟方志功の原風景」という著書の批評が載っている。書評氏は最後に志功と保田与重郎は近しかった、と書いている。アカショウビンは若いころ友人と東北を旅した時に青森の禅寺で志功の作品と正面した。『釈迦十大弟子』である。そして書評氏は、保田がドン・キホーテなら志功はサンチョ・パンサだが、本来的な意味でのポストモダンすなわち「近代の超克」を成し遂げたのはサンチョ・パンサのほうだったのではないか、と書いている。なるほど、そうかもしれない。保田は志功との出会いを新学社文庫22巻の『作家論集』で書いている。久しぶりに保田を読むことにする。

 保田が昭和30年に「日本談義」に「棟方志功のこと」として書いた文章は文庫の207頁から210頁までの他の作家論に比べれば実に短く、そのぶん事の本質を見抜いた日本論と日本人論になっている。多くの人に一読を薦めたい。そこで保田は「何故『日本的なもの』が世界性をもち、『頑固な日本主義者』に世界のムナカタとなる可能性があるあらうか」と問うている。

 そして次のように続ける。

 美術の世界では、模倣と創造の区別は極めて明白だ。日本的なものがよいとか、日本的なものでなければ駄目だといつた議論だけでは通らない。日本的であるまへに、日本そのもをぢかに現わしたものでなければ、誰も納得しない。造型はそれほど明白である。造型の美の明白さは真理の明白さに通じている。(208頁)

 更に「我々は棟方の藝業をみて、死語だつたものが、生きて血色をふき出すさまを味つたのである。(209頁12行~13行)と書いた。優れた芸術作品と出会うということは正しくそういう経験である。昭和30年とい戦後10年後に書かれたこの一文は繰り返し毎読すべき内容を有していることを再確認した。

 それにしても戦後70年、インテリたちもマスコミも珠に読むべき内容をもつ論文や論考に出会うことも多い。まぁ、こちらの関心事の領域に限定されているのだろうが、そういった文章や言説に遭遇すれば、こちらのふやけた心身にも好い刺激となることは間違いない。

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