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2015年6月20日 (土)

売り食いと美術館で絵画の時間

 貧窮生活が来るところまで来た。そこで都内へCDを売りに。信用のある有名店だが、今回は往復の電車賃と昼食代で相殺。何とも空しい結果になってしまった。2000円前後で買ったものが平均160円である。前回はもっと高く売れたので期待したので名盤を選んだのだが甘かった。どうも店の担当者が何人かいて、それぞれの見解が異なるということだった。

 気分を取り直して、せっかく都内まで出たので上野へ。久しぶりに国立西洋美術館の常設展を訪れた。入場料430円で画集にはない本物のオーラの刺激を受けられる。展示は前回と殆ど変りはないが新たな購入作品も2点あった。幸運だったのは「ヨハネス・フェルメール帰属」(聖プラクセディス)という何とも奇妙なタイトルを付けられた作品が見られたことだ。未だフェルメールの作品なのか真贋がはっきりしていない。それが日本で常設展で見られるということは高校生の頃からのフェルメール・ファンとしては何とも幸いな偶然だった。じつは先ごろ来日した「天文学者」も見逃してしまっただけに本日の奇遇はありがたかった。作品は若きフェルメール23歳の時の模写とされているものだが、作者の技量の違いは歴然としている。

 今回は一眼レフカメラを持っていったが他の作品は撮影可で、この作品もこれ幸いとばかり撮ろうとしたら係員の女性がとんできて撮影はだめです、と言う。見れば作品の脇に撮影禁止マークがあるではないか。しかし、やはりカメラに撮ると作品の発する何かが感得できない。本物の前に立ち熟視する。その行為こそが人の精神を励起させるのだ。音楽もそうだ。CDでは生の演奏の持つ情報量のどれほどが再現されているのか。その違いに盲目であってはならない。コピーは所詮コピーなのである。それは来日したフェルメールの作品を熟視した時に痛感した。昨年二度目に訪れた長野県小布施の北斎館の北斎の肉筆画もそうだった。

 そこで陳列された絵画芸術作品とは何か、という問いを発してみよう。というより会場を回りながら、自分は鑑賞しているのではない、違う行為をしているのだという思いにかられたからだ。作品は作者の視線と絵筆が走る時間の残骸とも言える。画家の費やした時間が作品として空間化され、それは死骸とも亡霊たちともなっているのではないか。会場を訪れている私や他の人々は死骸や亡霊を見ながら芸術作品を鑑賞する貴重な時を過ごしていると錯覚しているだけではないか。CDを聴いているのはコピーされた音の羅列を聴いているだけで「音楽」を聴くという経験ではないのではないか。そのようなことは小澤征爾さんが対談で話していた。このような問いと回答はさらに深めていかなければならない。それは私たちが生きて存在しているということにも深くかかわってくると思われるからだ。

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