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2015年6月22日 (月)

無限の網

 私たちが、この世界に棲み生き死ぬ、ということはどういうことか。還暦を過ぎると人生で経験することは、まぁこんなものだろう、というくらいには納得する。そしてたいがいのことに疑り深くなる。テレビを見ていても面白くない。何か文句を言いたくなる。身体もあちらこちらガタがきて手足の痺れ足腰の痛みはますますきつくなる。

 人間は死ぬ生き物である、とは古人が鋭く洞察した、若者たちは気に掛けることもないが歳をとるともに日々に痛感する人間という生き物の本質である。先日は血尿があり市立病院で受診すると採血による血液検査で極度の貧血を指摘された。ここ数年の体調不良の原因はアルコールの過剰摂取のせいもあるだろうが加齢による体力減退、免疫機能の低下もあるのだろう。これほどの貧血の原因は胃ガンの疑いがあるというので胃カメラを受診した。担当医師は手術になると思います、と話したからどうも胃ガンのようだ。内視鏡手術か開腹手術かは詳しい説明と医師との相談だ。昔の人は家族や近親、周囲の人々の生き死にをみて人生60年を一区切りとした。アカショウビンの現状からすれば還暦をすぎれば余生と諒解する。できるかぎり迷惑をかけず現世を去る準備を進めよう。近親や友人たちにもそれは伝えた。

 それにしても娑婆世界を生きるとはどういうことか。死ぬとはどういうことか。物心ついた頃からアカショウビンは断続的に愚想を継続してきた。多くの人々も病に罹ればそうであろう。その回答は若いころから仏教哲学、西洋哲学に関心をもち疑問を解決しようとあれこれの書物を渉猟してきた。この20数年はハイデッガーの著作や講義録を興味深く読み続けてきた。それはこの10年書き続けてきたこのブログを辿れば確認できる。読者の方々にも関心のある方には少しは参考になるかもしれない。

 ハイデッガーは時間と存在を<世界・内・存在>という概念で捉え、そこに生きる私たち人間を「現存在」という概念で思索した。そして存在(有るもの)を時間で捉えようと主著『存在と時間』を世に出した。同時代に日本から留学した田辺元はハイデガーと交流しその論考に注目し帰国してからもハイデガーの哲学を常に意識しながら自らの思索を深めた。その経緯は先日紹介した「田辺元とハイデガー 封印された哲学」(合田正人著 PHP新書884)に詳しい。その中で興味深かったのは戦後田辺が先の大戦で教え子たちを鼓舞し戦場に送った責任を悔い戦後の自らの思索・哲学を〝懺悔道〟として継続したことだ。そのなかで田辺はドイツのヤスパースやハイデガーの言説・論考にも目配りしていた。戦前の1938年にはヤスパースの「実存哲学」の出版を受けて「実存哲学の限界」と題する論考を発表した。田辺はヤスパースの立場も斥けるにいたるがハイデガーの哲学を〝時間的実存哲学〟、ヤスパースを〝空間的実存哲学〟と規定しつつ「前者から後者への移行を実存哲学の多大な進歩として捉えてさえいる」(同書p179)

 その田辺が戦後の思索のなかで1949年の『哲学入門』で述べている箇所が実に興味深い。それは「無限の網」という比喩を用いて田辺は説く。(以下、続く)

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