« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月25日 (木)

みやらびあはれ再考

 23日が沖縄慰霊の日というので首相と知事を肴にマスコミが報道し識者が喋々しているのを苦い思いで見ながら保田與重郎の「みやらびあはれ」を再読しようと思い立った。保田が沖縄を訪れたのは昭和14年だったか、と昭和22年7月1日に誌すとされているこの文章を書いている時に保田は回想している。この文章は保田與重郎文庫15巻(新学社 2001 年)「日本に祈る」に収載されている。ただし原文の引用は旧仮名遣いにしたがうが旧漢字の書体は現在のもので代用する。

 旅の一行は、柳宗悦、棟方志功、濱田庄司といった民藝の諸氏。「みやらび」という琉球語をタイトルにしたこの文章で保田は、入院していた軍病院を退院して朝鮮半島の零下20数度の高地から暖かい平地の宿舎へ移転してきた頃のエピソードから書き出す。保田の文人としての気概は「無くなってゆくもの、敗れ去ったもの、亡びゆくゆくもの、それを描きとどめ、描きとどめた文章の力によつて、亡びゆく雑多を悲しみ葬り、大筋を支へ守るといふことは、古来から詩人の務と任じたところである。詩人は勝利の記録を描く御用作家と両立せぬ存在であった」(同書p12)という箇所に記されている。それは戦前・戦中に書いた芭蕉や後鳥羽院から学び骨の髄まで沁み込ませた保田の基本姿勢、基本理念の如きものである。芭蕉は文章は遺言である、と云っていると自らの書くものに血を通わせる気迫を込めた。

 戦後の日本人の変貌を憂えた保田の嘆きは続く文章に読み取られる。

 「日本人の趣味は、最も美しく正しいものと信ずるもののいのちを象り、相手と一體となり、かつそれに敬虔に仕へてゆく気分心持から生れるのである。この浪曼的な心情を、封建的な気分の名残りと云ふ者は、覇道への臣従と人倫の願望を混同し、封建を維持してゆく覇道の実體を、実生活に於て了知せぬ残薄者であり、覇道との戦ひから生れた、この趣味の実體をさとらず、これを今日の状態で見れば、今日のあらゆる精神の犯罪と罪悪の、根柢をなしている覇道の、実體を見定め得ぬ軽薄者となるのである。今日の課題は、最も低い覇道と戦ふこと以外にはない」。

 敗戦直後の日本の現状をこのように保田は嘆く。そのような〝教養者〟の姿を保田は「ひすてりい(読点で強調)」と唾棄しその原因を信仰の欠如と指摘する。「信仰状態の欠如といふことがその原因であつた。思ふに近来の心ある日本の文人の負ふべき、負目の最大のものは、実にここにあつたと云ふべきである(同書p13)。

 保田は帰国が決まった頃の心境を「この世の修羅の中へ帰る心に、むしろ天上へ帰るが如きおもひであつた」(同書p15)として「私は天上と地上を瞬時に往来するものの自覚を味つた」と記す。

 戦後の現在を生きるわれわれは肉親の遺言とは異なる戦争を通過した文人の遺言の何たるかを読み取らねばならない。時の〝おっちょこちょい〟首相が国を誤らせるのであれば国士が出てそれを諌める筈だ。その国士はどこにいるのだろうか。敗戦の無残から戦後を生きた保田の思索と論考は腑に落とさねばならない。それは歴史と深く対峙し、それを我が身に収めることである。「みやらびあはれ」は日本を語り沖縄を語る。その日本を語るところが保田の真骨頂である。私たちは現在の沖縄と共振しながらこの論考を通し日本を考えさらに世界を考えていかねばならない。それには田辺やハイデガーの論考、言説も読み解きながら今を生きていることの意味を探っていきたい。(この稿続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月24日 (水)

体験版 医療の現在 ②

 先日の胃カメラ検査でわかった事は医療機器の目覚ましい進歩だ。以前、会社の定期検査でやった胃カメラは先週のとまるで違っていた。画像は鮮明。CTなどよりはるかに病巣がわかるだろう。しかし患者の痛み、苦しみまで機器を操作する若い医師の想像力は及ばない。それは主治医にしてもそうだ。生体検査の結果も判明しない段階で「手術になると思いますよ」とにこやかな目付きで患者に伝えるのは如何なものか。切りたい、という職業意識を患者に覚られて医師としてのレベルはいかほどか推して知るべし。しかし本日の生体検査の説明は明確でわかりやすかった。カメラで映像を見ながら経験からガンであることはわかったのだ。生体検査で胃ガンであることが判明し内視鏡で削り取れる小さいものではなく開腹手術になるとのこと。カメラの画像を見ながらガンの部位から出血している箇所などよくわかった。先週はマスクをつけていて眼の表情だけで安直な感想をもってしまった。なかなか優秀な医師でることが本日の説明でよくわかった。今後は近いうちに検査入院し再度胃カメラで観察。バリウム検査でガンの場所と大きさを特定し大腸の内視鏡検査もすることになった。

 それにしても、冥土への旅支度は粛々と進めねばならない。持ち時間は、どれほどあるのか。先年、前立腺ガンで亡くなった、棋士・米長邦雄の最期は立派で見事だった。アカショウビンもかくありたいとは思う。しかし、なかなか見習うことはやさしくないだろう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月23日 (火)

無限の網(続)

 著者は「世界の超越」ということで、田辺が念頭に置いていたのは、ヤスパースのいう「包括者」のことだろう、という。そして田辺は、これを端的に「他者」と呼んでもいる、とも。レヴィナスに先だってハイデガー哲学を「他者の不在」、「他者消去」と符牒を貼ったのは田辺である、と指摘する。その発想が興味深いとして引用するのが1949年の『哲学入門』だとして同書の一節を引用する。
 本来絶対はちやんと、纏まった、閉鎖して締括ることのできるやうな袋ではない。無限な網なのです。網はどこにでも穴が開いている。だから網はいかに口を締めておいても実はなんにもならない。何でもそれを出たり入つたりすることができる。すなわちその限りにおいては、網は袋が閉鎖的であるのに対して開放的である。網は自由に出たり入つたりすることができるものです。われわれはさういふ網の中にいる。袋の中に、いかに無限であるから動く余地があるとしても、相互の位置秩序を定められ自分のあり場所を決められて入つてをるといふやうなおとなしいものではない。われわれはもつと始末に終えないてん倒者なのである。網の中にいるがいつでも網の外に出ようとしている。足を半分出したり、手を半分出したりして網から外にはみだしている。しかし網はやはり外には出さないで内にはひるやうに仕向けている。網はちゃんと決つた形で、この位置にはこれ、あの位置にはあれ、といふ秩序立てはしない。網はそれこそ中へ入つてをるものが動くままに、足を出しさうになると足がこつちにはひるやうに、みづから動いていき、首を出さうとしてをるものがいると、上からそれを被ふやうに動く。網は網自身としてどうでも自由に中のものに応じて動き、その開放性を維持しながらしかもそれから出ようとするものを決して外へ出さないやうに摂取する。みづからの中へ収め取る。さふいふ働きをしてをるのが網である。それは袋の閉鎖性とは違う。網には自分の固有な形とか限界とか、またその内部の位置とか秩序とかいふものはないともいへる。無限な網。締括りも何もない。締括りしてもいくらでも出られるから開放的なのです。しかもみづからの内部のものを局所的に被ふやうに動き行くことによつて、これを外にださず、どこまでも内に収め取る。さふいふ網が無即愛の絶対に対する譬喩になるでせう。さふいふ網に摂取されている現実がいはゆる絶対現実である。
 しかし更にこの網の譬喩でもつてもうひとつ考へられることは、われわれは、ただ網の中に入つてをるだけではない。われわれはみづからが網の結び目になつて、私以外の外へ出ようとするものを、例えへば首を出さうとするものがあれば、網の目たる私みづからが動いて行つて局所的になんとかそれを中へ入れるせうにとする。さういふように、われわれは自身が網の結び目であることによつて、網の開放的に包むといふ働きに協力し参加するといふこと、さういふものが人間としての私の、絶対に対する関係といふものではないかと思ふ。だから網は結び目同士、連帯的な関係あるといふことにおいてのみ、網の結び目たる役目を果たすことができる。(同書p181~182)

 ヤスパースが「包括者」というものを田辺は自らのイメージと言葉で説明している。敬虔な信仰者であったヤスパースが「神」といわず「包括者」という概念で思索を深めていったように、田辺も戦後は〝懺悔道〟として思索した。

 それにしても面白いのは「包括者」という概念は老荘思想には通じまいか。ヤスパースはインド哲学を研究しているから中国哲学にも多少の理解があったかもしれない。「天網恢恢疎にして漏らさず」という〝世界〟の理解の仕方は何やら響き合っているように思える。ハイデガーの<世界・内・存在>にしても荘子をヒントにしたという指摘もある。田辺の〝無限の網〟にしても、海の中で生きる魚族や、それを捕獲し自らの命の糧とする人間の関係性をイメージ化し、それはひいては宇宙の中でそれぞれ存在する銀河系や太陽系などを統御する存在とし〝包括者〟や無限は考察する面白さを秘めているように思える。著者の合田氏は田辺の無自覚の作為のような戦後の論考を批判している。それは大戦を経ても戦前も同じ構造で継続しているとも。合田氏や内田樹らレヴィナスなどのフランス思想研究家たちが田辺やハイデガーを介して洋の東西の思想・哲学交流を検証し新たな境地を探索していることは悦ばしい限りだ。しかし彼らが生涯思索し続け格闘してきた問いと真理は未だにハイデガーの言い方をすれば「明るみにだされていない」。ひとつの可能性は田辺が期待した大乗仏教だろう。しかし宗派抗争を超えて、その可能性を現実化するには道半ばにして遠しの感は否めない。田辺は京都という風土から西田や鈴木大拙らと禅を通じて仏教哲学の果実を更に追求した。それはさらに後に続く者たちが更に探求しなければならない責務である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月22日 (月)

無限の網

 私たちが、この世界に棲み生き死ぬ、ということはどういうことか。還暦を過ぎると人生で経験することは、まぁこんなものだろう、というくらいには納得する。そしてたいがいのことに疑り深くなる。テレビを見ていても面白くない。何か文句を言いたくなる。身体もあちらこちらガタがきて手足の痺れ足腰の痛みはますますきつくなる。

 人間は死ぬ生き物である、とは古人が鋭く洞察した、若者たちは気に掛けることもないが歳をとるともに日々に痛感する人間という生き物の本質である。先日は血尿があり市立病院で受診すると採血による血液検査で極度の貧血を指摘された。ここ数年の体調不良の原因はアルコールの過剰摂取のせいもあるだろうが加齢による体力減退、免疫機能の低下もあるのだろう。これほどの貧血の原因は胃ガンの疑いがあるというので胃カメラを受診した。担当医師は手術になると思います、と話したからどうも胃ガンのようだ。内視鏡手術か開腹手術かは詳しい説明と医師との相談だ。昔の人は家族や近親、周囲の人々の生き死にをみて人生60年を一区切りとした。アカショウビンの現状からすれば還暦をすぎれば余生と諒解する。できるかぎり迷惑をかけず現世を去る準備を進めよう。近親や友人たちにもそれは伝えた。

 それにしても娑婆世界を生きるとはどういうことか。死ぬとはどういうことか。物心ついた頃からアカショウビンは断続的に愚想を継続してきた。多くの人々も病に罹ればそうであろう。その回答は若いころから仏教哲学、西洋哲学に関心をもち疑問を解決しようとあれこれの書物を渉猟してきた。この20数年はハイデッガーの著作や講義録を興味深く読み続けてきた。それはこの10年書き続けてきたこのブログを辿れば確認できる。読者の方々にも関心のある方には少しは参考になるかもしれない。

 ハイデッガーは時間と存在を<世界・内・存在>という概念で捉え、そこに生きる私たち人間を「現存在」という概念で思索した。そして存在(有るもの)を時間で捉えようと主著『存在と時間』を世に出した。同時代に日本から留学した田辺元はハイデガーと交流しその論考に注目し帰国してからもハイデガーの哲学を常に意識しながら自らの思索を深めた。その経緯は先日紹介した「田辺元とハイデガー 封印された哲学」(合田正人著 PHP新書884)に詳しい。その中で興味深かったのは戦後田辺が先の大戦で教え子たちを鼓舞し戦場に送った責任を悔い戦後の自らの思索・哲学を〝懺悔道〟として継続したことだ。そのなかで田辺はドイツのヤスパースやハイデガーの言説・論考にも目配りしていた。戦前の1938年にはヤスパースの「実存哲学」の出版を受けて「実存哲学の限界」と題する論考を発表した。田辺はヤスパースの立場も斥けるにいたるがハイデガーの哲学を〝時間的実存哲学〟、ヤスパースを〝空間的実存哲学〟と規定しつつ「前者から後者への移行を実存哲学の多大な進歩として捉えてさえいる」(同書p179)

 その田辺が戦後の思索のなかで1949年の『哲学入門』で述べている箇所が実に興味深い。それは「無限の網」という比喩を用いて田辺は説く。(以下、続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月20日 (土)

売り食いと美術館で絵画の時間

 貧窮生活が来るところまで来た。そこで都内へCDを売りに。信用のある有名店だが、今回は往復の電車賃と昼食代で相殺。何とも空しい結果になってしまった。2000円前後で買ったものが平均160円である。前回はもっと高く売れたので期待したので名盤を選んだのだが甘かった。どうも店の担当者が何人かいて、それぞれの見解が異なるということだった。

 気分を取り直して、せっかく都内まで出たので上野へ。久しぶりに国立西洋美術館の常設展を訪れた。入場料430円で画集にはない本物のオーラの刺激を受けられる。展示は前回と殆ど変りはないが新たな購入作品も2点あった。幸運だったのは「ヨハネス・フェルメール帰属」(聖プラクセディス)という何とも奇妙なタイトルを付けられた作品が見られたことだ。未だフェルメールの作品なのか真贋がはっきりしていない。それが日本で常設展で見られるということは高校生の頃からのフェルメール・ファンとしては何とも幸いな偶然だった。じつは先ごろ来日した「天文学者」も見逃してしまっただけに本日の奇遇はありがたかった。作品は若きフェルメール23歳の時の模写とされているものだが、作者の技量の違いは歴然としている。

 今回は一眼レフカメラを持っていったが他の作品は撮影可で、この作品もこれ幸いとばかり撮ろうとしたら係員の女性がとんできて撮影はだめです、と言う。見れば作品の脇に撮影禁止マークがあるではないか。しかし、やはりカメラに撮ると作品の発する何かが感得できない。本物の前に立ち熟視する。その行為こそが人の精神を励起させるのだ。音楽もそうだ。CDでは生の演奏の持つ情報量のどれほどが再現されているのか。その違いに盲目であってはならない。コピーは所詮コピーなのである。それは来日したフェルメールの作品を熟視した時に痛感した。昨年二度目に訪れた長野県小布施の北斎館の北斎の肉筆画もそうだった。

 そこで陳列された絵画芸術作品とは何か、という問いを発してみよう。というより会場を回りながら、自分は鑑賞しているのではない、違う行為をしているのだという思いにかられたからだ。作品は作者の視線と絵筆が走る時間の残骸とも言える。画家の費やした時間が作品として空間化され、それは死骸とも亡霊たちともなっているのではないか。会場を訪れている私や他の人々は死骸や亡霊を見ながら芸術作品を鑑賞する貴重な時を過ごしていると錯覚しているだけではないか。CDを聴いているのはコピーされた音の羅列を聴いているだけで「音楽」を聴くという経験ではないのではないか。そのようなことは小澤征爾さんが対談で話していた。このような問いと回答はさらに深めていかなければならない。それは私たちが生きて存在しているということにも深くかかわってくると思われるからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月17日 (水)

体験版 医療の現在

 先日、市立病院の消化器内科を受診する前に私立大学病院のメンタルクリニックという科で睡眠薬を処方して頂こうと思い受診した。急行でひと駅。駅から歩いて5~6分のその病院は都内の医院の関連施設で古い面影を残している。庭があり昼食はそこで済ませた。アカショウビンは睡眠薬だけ処方してもらえばすぐに帰るつもりだったが何と採血しCTを撮るという。おまけに認知症の診察までしてくれた。余計なことを、とは思ったが結果的には病状が画像ではっきり伝えられてよかった。記憶の減退や諸症状を脳のCT画像で説明されると愕然となったことは白状する。しかし現実と事実には面と向かわなければならない。若い女医は簡単なテストをするという。記憶力を試す仕掛けだ。アカショウビンは30点満点のうち28点。この2点がこれからどうなるのか診ていきましょうと女医はにこやかに微笑んだ。

 睡眠薬を処方してもらえば2~3千円で済むはず、とたかをくくっていたのが何と1万円余。患者はといえば多くが高齢者である。車椅子で母親を介護する同年代の男や明らかに精神に異常をきたしている老若男女。アカショウビンは数年前に大阪で母を看取ったとき以来の病院通いだ。鏡を見れば自らの身体が無残なほどに痩せさらばえているのを眼にすると時間はそれほどあるわけでもないことを実感する。

 それはともかく、今回の治療で判明したのはアルツハイマーが進行していること、血液が危機的状態まで減少していることだ。それに続き胃腸に疾患があればさらに継続して治療していくことになる。本日は午前中に先日の歯周病と歯の治療だ。肉体は疲弊し経済的にも消耗していくが些かの抵抗と整理だけは粛々と進めていきたい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

恨みと呪い

 今朝の毎日新聞の朝刊に「悲劇の責任 国は認めて」の見出しで新潟水俣病の現状をレポートしている。「被害者のためになされるべき救済が、政権の思惑に左右され、場当たり的に行われたのではないか」という記者の疑念は当たっている筈だ。それは熊本の水俣病訴訟・闘争でも、国民国家という仕組みの中で国家と国民の間に常に生じる障害だ。記者は、環境省が平成13年に作成した冊子で「水俣病の拡大を防止できなかった背景には、(中略)高度経済成長への影響に対する懸念が働いていたと考えられる」という記述を紹介している。「判決で患者と認められた7人全員が国の責任認定を求めて控訴した。半世紀を経た今、被害者の怒りは原因企業よりも国に向いている」と記者は記している。

 現政権の横暴と無能・無学を報道で知れば事は個々の事情ではなく構造的な問題である。それは国民の恨みと呪いとなって噴出する。沖縄戦やヒロシマ、ナガサキ、水俣、新潟で殺され、亡くなった人々の怨念は恨みと呪いの声となって、彼岸から此岸へ木霊となり響いている筈だ。その声を聴きとらなければならない。

 水俣や新潟での医療機関の対応は、行政と政治とも関与し現実に生きる我々国民一人一人の日常に関わってくる。アカショウビンはここ数年の体調不良で先日から病院通いの毎日である。先日は歯周病という診断だったが、左下の歯に痛みがあり左の頬がお岩さんのように無残に腫れた。それは抗生物質の錠剤を飲むことで緩和した。医療技術の進歩は喜ばしい限りだ。しかし、そこには弊害も出てくる。一昨年は肝臓の治療で飲んだ薬の副作用で苦しめられた。先日の診断でアカショウビンの身体の血液は平均の3分の1しかないことを伝えられた。愕然とした。しかし明快な診断はありがたいとも言える。医師は輸血を薦め、昨日は2時間余りかけて400ccを注入した。感染症など副作用が心配だが医者に任せるしかない。若い医師だがどれほどの技量と能力があるかはこれからわかってくる。昨日の短い遣り取りでは幾らか威圧的で説明不足の感もあった。別な病院での頭のCTでは既にアルツハイマーが進行していることも告げられた。

 すでに死への行程の最終段階をアカショウビンは辿っているのを実感する。60年生きられて感謝する。あとは正しく余生だ。今後は治療を続けながら「体験版 現在の医療現場」というレポートも兼ねる。読者の皆様の体験やお考えがあると思う。コメントには具体的に応えていきたいのでよろしくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月15日 (月)

オーネット・コールマン追悼

 オーネット・コールマンが11日、亡くなった。85歳とは昔のジャズメンたちからすれば天寿を全うしたことになる。アカショウビンは、それほどファンだったわけでもないがフリージャズの牽引車のようなアルト吹きだったから幾つかの録音は若いころから聴いている。追悼するため1968年の4月29日と5月7日の2日間にわたって録音された「オーネット・コールマン ニューヨーク イズ ナウ」を聴く。ジャズにしろクラシックにしろヘッドフォンで集中して聴くのは久しぶりだ。コルトレーン・バンドのエルヴィン・ジョーンズとジミー・ギャルソンが参加しているので興味があり昨年か一昨年購入した。1曲目から5曲目は、それなりの面白さだが最後の6曲目「ウィ ナウ インターラプト フォー ア コマーシャル」が彼らしい。ほとんどジャンルを問わない現代音楽である。オーネットの声入り。そこには深い知性を感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月14日 (日)

ミナマタ

 石牟礼道子さん(88)の 「苦海浄土-わが水俣病」が出版されたのは昭和47年12月15日。本日の毎日新聞の1面の朝刊は石牟礼文学二人三脚」の見出しで写真に石牟礼さんと渡辺京二さん(84)の写真。2面には不敵な面構えの若き石牟礼さんの写真も。「苦海浄土」の初稿は「海と空のあいだに」で、渡辺さんが編纂する「熊本風土記」に掲載されてから50年ということだ。アカショウビンが所有している文庫本は数度の引っ越しでボロボロ。水俣病は「チッソの工場廃液により集団的に発生した。利益偏重の高度経済成長のひずみが生み出した悲劇である」(記者)。その悲劇の舞台で石牟礼さんは昭和のジャンヌ・ダルクとも称されたとは初めて知った。それは2面の写真を視ると納得する。正に闘士の眼付である。

 記事は渡辺さんとの師弟とも同志ともいえる交流にスポットライトをあてている。この日本文学に画期的な杭を打ったともいえる作品は正しく二人三脚で仕上げられた。アカショウビンは平成4年に完成された「新装版 苦海浄土 わが水俣病」で改めてこの作品を読み直し世界史的な犯罪を改めて確認した。1968年12月21日未明に記されたあとがきのなかで著者は「そこで私たちの作業を記録主義とよぶことにする」(新装版 p360)と記している。これが世界的なレベルに達する石牟礼文学を切り開いたのだ。2面のモノクロの写真とカラーの現在の姿を比べると人間という生き物の存在の不可思議を探求する衝動に駆られる。

 吉本隆明亡きあと日本有数の思想家である渡辺京二が水俣病闘争を戦った時の当時のエピソードがさりげなく記者によって紹介されている。「このあいだ、私が水俣病闘争の初期にあなたに書いた手紙が2通出てきた。一緒に破滅する覚悟はできとります、と書いてあったよ。ハハハ」。師弟・同志は、そのような会話を交わしながら日常を生きている。その共時的な現実に私たちも共振しなければならない。

 先日、市立図書館で新書の「田辺元とハイデガー 封印された哲学」(合田正人 PHP新書 ㈱PHP研究所 2013年12月2日)が眼にとまり拾い読んだ。発刊された時に読んだ記憶もあったが再度眼を通した。封印された哲学という副題には師弟ともライバルとも見なせる優れた哲学教師の業績に対する現在の評価が含まれている。二人ともナチズムと日本軍国主義に加担し若者を戦場に駆り立てた悪名高き哲学教師という世評だ。当時のそれぞれの論考を著者は丹念に辿り、世評と事実がいかに相違し誤解、誤読されているかを明らかにしている。田辺は師が西田幾多郎である。同時に哲学者としてはライバルである。その経緯も面白い。田辺がドイツに留学しハイデガーに注目し、その論考を西田に紹介したらほとんど関心を示さなかったらしい。

 著者はエマニュエル・レヴィナスの翻訳者である。レビィナスはハイデガーの教え子である。田辺は丸山眞男ら戦後の大学教師たちからすればマスコミからはまったく干され、それは保田與重郎とも同じ晩年を過ごした人である。その戦前・戦中・戦後の哲学史の一端がこの著書で読み取れる。しかし、それも一部である。田辺はハイデガーを師ともライバルとも見なし、西田ともすさまじい論争を展開している。その一端が浮き彫りにされている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 9日 (火)

男はつらいよ第29作 寅次郎あじさいの恋 

 紫陽花の美しい季節にほだされて、レンタルDVDで久しぶりに同作を観直した。1982年の夏に公開されている。ヒロインは、いしだあゆみ。アカショウビンが高校生のころに、「ブルーライト・ヨコハマ」というヒット曲がそこかしこで聞かれた。その愛くるしい容貌から芸能界ではお決まりのテレビ、映画から引きがあったのだろう。その後、女優業で幾つかの名作にも出演し基盤ができた。「駅 ステーション」でも強い印象を与えた。

 本作は山田監督の熟練の演出やスタッフ、出演者のチーム力であることはいうまでもない。舞台は葵祭りの頃の京都から丹後である。陶芸家、河井寛次郎を模した役を片岡仁左衛門が実直に演じている。数年前に暫く大阪に転居した時に記念館を訪れたことがある。その記念館でのシーンが懐かしかった。

 河井寛次郎は保田與重郎が棟方志功と共に強い関心を示した人だ。日本を越えてその作品が世界に通用する芸域に到達した芸術家である。先に引いた保田の文庫では「作家論集」で棟方志功の前に置かれている。こちらは藝術新潮に昭和29年9月号に掲載された。昭和11年に「コギト」に掲載された伊東静雄論から三島由紀夫論まで保田の関心領域は時を越えて読まれなければならない内容をもつ。改めて読書の力を奮い起し余生を過ごしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 8日 (月)

保田與重郎の沖縄と戦後の沖縄

 保田與重郎が〝日本に祈る〟という表題の文庫中、第15巻の中で「みやらびあはれ」という文章を書いたのは昭和22年7月1日。これは先の棟方志功の文章より長文の言葉を尽くして書いた沖縄論と日本論である。この批評家が小林秀雄とは戦後の論壇で立場を異にしながらも戦後の論壇、文壇、美術界に深甚の影響を与え続けたことはアカショウビンにも歳をとり読み直すほどによくわかる。

 さきほどレンタルDVDで「日本女侠伝 激闘ひめゆり岬」(小沢茂弘監督)を観た。富士純子と菅原文太の主演作品だ。全編、沖縄ロケで亜熱帯の風土と人々がよく描かれている。自然はその頃と大きくは変わっていまい。しかし沖縄の現状とヤマトの現在を考えると、此の国の将来が正念場を迎えていることは痛感する。沖縄が日本に返還されるまでは本土からの沖縄入りは通貨も含めて外国へ渡航することだったのだ。それは奄美も同様だ。アカショウビンの父親も密入国で本土に渡り印刷機器を持ち帰ったと聞いた。

 保田の論考は今こそ為政者や日本人が熟考する内容を孕んでいる。昨今のふやけた国会論戦を見聞きするだにそう思う。菅原文太という俳優が最期まで沖縄にこだわったのは、この作品を沖縄で撮りあげた事が大きく影響しているのは明白だ。そこで保田の沖縄・琉球論とヤマトを共振させなければならないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

 保田與重郎と棟方志功

 昨日の、毎日新聞の書評欄に長部日出雄氏の「棟方志功の原風景」という著書の批評が載っている。書評氏は最後に志功と保田与重郎は近しかった、と書いている。アカショウビンは若いころ友人と東北を旅した時に青森の禅寺で志功の作品と正面した。『釈迦十大弟子』である。そして書評氏は、保田がドン・キホーテなら志功はサンチョ・パンサだが、本来的な意味でのポストモダンすなわち「近代の超克」を成し遂げたのはサンチョ・パンサのほうだったのではないか、と書いている。なるほど、そうかもしれない。保田は志功との出会いを新学社文庫22巻の『作家論集』で書いている。久しぶりに保田を読むことにする。

 保田が昭和30年に「日本談義」に「棟方志功のこと」として書いた文章は文庫の207頁から210頁までの他の作家論に比べれば実に短く、そのぶん事の本質を見抜いた日本論と日本人論になっている。多くの人に一読を薦めたい。そこで保田は「何故『日本的なもの』が世界性をもち、『頑固な日本主義者』に世界のムナカタとなる可能性があるあらうか」と問うている。

 そして次のように続ける。

 美術の世界では、模倣と創造の区別は極めて明白だ。日本的なものがよいとか、日本的なものでなければ駄目だといつた議論だけでは通らない。日本的であるまへに、日本そのもをぢかに現わしたものでなければ、誰も納得しない。造型はそれほど明白である。造型の美の明白さは真理の明白さに通じている。(208頁)

 更に「我々は棟方の藝業をみて、死語だつたものが、生きて血色をふき出すさまを味つたのである。(209頁12行~13行)と書いた。優れた芸術作品と出会うということは正しくそういう経験である。昭和30年とい戦後10年後に書かれたこの一文は繰り返し毎読すべき内容を有していることを再確認した。

 それにしても戦後70年、インテリたちもマスコミも珠に読むべき内容をもつ論文や論考に出会うことも多い。まぁ、こちらの関心事の領域に限定されているのだろうが、そういった文章や言説に遭遇すれば、こちらのふやけた心身にも好い刺激となることは間違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 3日 (水)

読書とラジオ、求職の日々

 若い友人とネットのラインで遣り取りしていて衝動的に道元を読みたくなった。岩波の2巻本である。道元の原文なのだが、前回は巻末の寺田 透の「道元の分裂」という批評文の途中から少し読んだ。これが実に面白い。道元がこだわった出家に絡めて寺田が評釈している。そこには道元の真髄まで切り込み生涯の精進に寄り添おうとする気迫が溢れている。日本で仏典を読み抜いた稀有の仏者の評価と批判に触発される。ギリシア以来の存在論を介してデカルト以来の近代西洋哲学を転覆、解体させようと意図するハイデッガーの思索ともそれは反照する。

 暫し書を置き、ラジオを聞くと深夜便で佐藤愛子へのインタビューが放送されている。御歳91歳。矍鑠たるお声で若い女性ディレクターの質問に答えている。最初の結婚に失敗し作家として生き続けた人生を語っている。本日は前半部分のみ。明日の夜明けには後半が語られる。楽しみだ。明日は都内へ。体力は日々に衰えているが、気力を振り絞り動かねばならぬ。就職の目処は未だつかず。八方手を尽くしたい。道元の思索と共振しながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »