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2015年4月24日 (金)

就活の日々

 昨日は就活の一環で都内の焼肉を焼く機械の試食会へ。韓国では大好評で、日本で販売戦略にかかる。家庭用としてテレビショッピングにも参加するらしい。アカショウビンもこのPRに関わっていくように誘われた。しかし日銭が稼げるのか不明。
 きょうは都内へDVDを売りに行く。いつまで続くぬかるみぞ、という心境だ。しかし、このまま一敗地にまみれるれるわけにもいかない。
 将棋の名人戦も挑戦者の行方が勝って面白くなった。こちらも力を奮い起こし頑張らねば。

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2015年4月20日 (月)

ハブと拳骨

 山田洋次監督の「同胞」と一緒に2006年に製作された表題の映画をレンタルDVDで観た。面白い。2006年の沖縄の現状は現在と通底している。現在の沖縄に思いを馳せるには格好の作品だ。それは奄美や沖縄の南島とヤマトを対比させて面白い。このような作品を見ると山田作品も暢気な映画にみえてくるところが映画作品の面白いところでもある。二本の作品を観てそのような感想をもった。米軍が駐留し沖縄県民が激怒している現在の政治状況とも共振する。それは戦後の日本と米国、沖縄の三すくみの現実とも呼応する。求職で奔走するなかこのような作品と出会えて良かった。明日から就活に喝をいれることができた。

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2015年4月19日 (日)

新聞紙面と読書

 先週15日の毎日新聞の夕刊を本日見て面白かった。宮台真司氏の渋谷の話を記者がまとめている。たまたまアカショウビンはその日、渋谷で知人と飲んだ。久しぶりに訪れる飲み屋街は中高年には異空間といってもよい時空間だ。おかげでスマホを忘れ昨日は取りに再訪し取り戻せて良かった。一度ネクサスを失くし買い換えているから失業の身で無駄遣いなどできないのだ。昨日は地下鉄で埼玉の寓居まで戻って来たが電車の車内で新聞や雑誌を読んでいればそれなりに快適な空間である。夕刊の宮台氏の記事の隣は田中優子さんの「江戸から見ると」のコラム。表題は〝沖縄からの問い〟だ。法政大学の沖縄研究の過去と現在を通じて自民党幹事長の菅氏と沖縄の翁長氏の事が書かれている。二人とも法学部に在籍し現在の対立関係にある。田中氏の視野は1609年の薩摩の軍事侵略と明治の琉球処分まで届いている。1945年の沖縄戦の苛烈も近現代史として若い人たちに伝え学んでもらわなければ現実の沖縄の現状はヤマトンチュには伝わるはずもない。本日はアカショウビンの大学時代の今は高校教師をしている友人と電話で少し話をしたが我々のような戦時中を生きた父母たちをもつ世代も既にその話は現今の政治状況のなかで語り伝えることが困難になっているのは現状を見れば明らかだ。それにはこのような仮想空間の中で論じ語らなければならない。

 図書館では故・木田 元氏訳のの「現象学の根本問題」を借りてきた。創文社の全集版とは異なる木田版の訳文は精読しなければならない。戦前から戦中、戦後の日本人のハイデッガー受容の過程が辿られるからだ。求職中の合間に読書の時間も作り現今の状況と切り結んでいきたい。

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 休日の新聞とテレビ番組

 今朝の毎日新聞の書評欄では今福龍太氏の「ジェロニモたちの方舟」が紹介されている。数年前に奄美出身のアカショウビンは同氏の著作を幾らか読んだ。7年前の著作『群島-世界論』だ。この視点は日本人は世界と同時代を生きるうえで不可欠の視座と思える。

 書評氏によれば、それはかつてより弱まったとはいえ現在の米国の「力の原理」への批判が軸となっているらしい。今福氏は当時、奄美や沖縄にも住みフィールドワークをされていたようだ。奄美は島尾敏雄氏の作品と共にアカショウビンとも関わる。その意味でも近著は興味深い。それは現在の政治状況とも絡んでくることだからだ。求職活動に汲々としながらも選挙の連呼の声を聞きながら市民、国民の一人として声を発していかねばならない。

 今福氏は反=アンチでなくジェロニモの叛としてアメリカの対インディン戦争で白人に抵抗したアパッチ族の戦士の名で「群島的な抵抗原理の符丁」として使っているという。その言や好し。中ではベトナム戦争のジェノサイド(大量殺戮)を告発したネルーダも紹介しているようだ。それは近いうちに必読書として読みたい。現実でも中東、ウクライナで米国の支配体制とイスラム諸国との文明の衝突は続いている。そに活路を見いだすのは先の大戦を経験した日本国民としては新たな視座を呈しなければならないのに現政権は明らかに逆行している。それは現在を生きる我々にふりかかる問いでもある。その事に鈍感であってはならない。

 とにもかくにも、お一人様の老後を軟着陸させるためには日々戦いの毎日である。つかの間の休日にエネルギーを充填し生き抜きたいと喝をいれる。

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水平社と現在に対するあれこれの雑感

 若い友人からスマホにNHKで放映した番組の画像が送られてきた。部落差別に反対した水平社の創立に関わるものだ。その経緯は関東より関西で、より色濃く社会の歪として現在まで続いている。それは此の国の歴史の中で抜きがたいものとして隠蔽されつつ染みのように時に表面に現れる。古くは文学では島崎藤村の作品、現代では中上健次の作品に読むことができる。映画ではアカショウビンは若松孝二の最後の作品「千年の楡楽」で観た。全共闘の世代の若松監督が中上の作品を公開する準備中に新宿で交通事故で亡くなったということは何やら因縁深いものを感じたことはアカショウビンだけでもあるまいと思う。作品は和歌山という土地で生きる人々の姿が中上の小説の文章を解釈した映像で垣間見られて触発された。

 NHKの番組は水平社創立の大正時代からの歴史を学者の解説を交えて構成しているが、関西でも関東でも現在まで喉に刺さった棘のように歴史的に影に継続されている。それを番組は伝えているが差別の現実は他人に計り知れるものであるまい。誠に此の世の理不尽とは現在の沖縄と国家の軋轢にも実際に暗澹となる現実として継続している。この現実にアカショウビンを含めて日本人は何と鈍感なのかと昨今のテレビを見ていると溜息がでる。国家は政治的駆け引きで国民を振り回し支配しようとあくせくする。それに抵抗するのに選挙の1票は余りにも空しい。しかしその重みは自ら足を運び意志を表明しなければ反映されない。

 歴史は動いている。これまで日本は平和を謳歌してきた。しかし、それが現政権は歴史を逆行させる意志と意図で策動している。その事に国民は沖縄の声に共振しなければならないが現実は能天気である。何かできないか、と思う。知人は沖縄に移住して生活すればと言ってくれる。そうなれば辺野古への移転反対闘争にも参加できようが無職の身で沖縄に移住できるだろうか。埼玉での生活をたためる見込みもない。

 ことほどさようにあれこれ愚想を巡らす。

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2015年4月12日 (日)

中仕切り

 先月、途中ブランクの時期はあったが通算23年務めた会社を退職した。そこでのサラリーマン経験を生かし新たにフリーランスのライターとして余生を生きていく所存で試みにブログの体裁を変えてみた。しかし、これでは一貫性に欠くと思い直し、多少の修整をして元の形に戻した。仕事の請け負いは別にブログを立てることにする。

 職を辞し新たな生き方を選択するなかで、ここは以前にも書いたが鴎外の随筆にある「中仕切り」(表記は違うかもしれないが)である。このブログは2005年から書き継いでいる。内容は、よく言えば多岐にわたるが、友人たちからは、テーマからずいぶん外れたことばかりで「お前、分裂症じゃないの」という悪口も聞いている。まぁ、友人の呵責ない発言だからそれは聞いておく。しかし、2005年にブログを書き始めたことは伊達や酔狂ではない。口はばったい言い方になるが、それまでの考えや思想信条を友人や未知の読者たちに書き遺しておく衝動に駆られたからだ。その詳細はさておく。

 それよりも、これまでの10年間はそれまで読み続けてきたハイデガーの著作、講義、講演、またドイツやフランスでハイデガーに共感、対決を試みているジャック・デリダ、アドルノの著作も読みハイデガーという哲学教師の生涯の思索、考察を検証し新たな地平を切り開きたいという目論見があった。また西洋哲学と仏教哲学、保田與重郎の著作を新たに読み続けながら西洋思想と日本思想の関連にもコメントしてきた。それはフーコーや吉本隆明の著作の再読ともなった。

 映画や音楽、絵画などはアカショウビンの道楽とでもいって好い領域である。敢えていえばハイデガーが公にしていない部分は映画や音楽の領域であり、これを存在論的に検討しハイデガーのいう現象学的解釈学という哲学的立場から新たな地平が臨めればハイデガー読解のかいはあったというものだ。

 還暦を過ぎ、やり残したことは多々ある。その中で、このブログのテーマにできるだけ集中し現今の政治状況への発言も継続する。それはネット社会の中でこの10年間に書き継いできたことを更にアカショウビンが生きている現在とハイデガーのいう既在、将来と交錯させるという試みである。

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2015年4月11日 (土)

日々雑感

 求職の日々、なかなか仕事にはありつけない。数年ぶりに日雇いの仕事もせねばなるまい。時間は好きに使える間に好きな映画も観られる。昨日は評判の「アメリカン・スナイパー」(クリント・イーストウッド監督)を有楽町のマリオンで観てきた。求職活動の空いた時に。観客はパラパラ。好い席で観られたのは幸い。作品はイラク戦争を再現する。戦闘シーンの迫力は凄絶。音響も。しかし「ジャージー・ボーイズ」には劣る。銃弾、ロケット砲、爆弾の炸裂音は耳を聾する如し。しかし監督の作品にしては物語の主軸が曖昧。戦場の再現では「フルメタル・ジャケット」(S・キューブリック監督)よりリアルだが主題では劣る。愛国者としての監督の意図だけが透け見えて不満。〝戦争〟を作品として描く事はかくも難しいことを実感させられた。監督作品ではないが主演している「人生の特等席」、「ジャージー・ボーイズ」の方が遥かに監督の才覚、才能が溢れている。

 その前日は友人の招待で今年のアカデミー賞受賞作「セッション」の試写を有楽町の読売ホールで観た。ジャズのビッグバンドを描いている。監督は若干27歳という若手。主演は19歳の高校バンドのドラマー。強引さも目立つが鬼教師との確執が面白い。ジャズファンには物足りないが終演後には会場から大きな拍手が送られた。アカショウビンの消化不良はさておき評価は上々。興業的には成功の見通しがついたというところだろう。主人公はバディ・リッチの大ファン。それを真似て古い録音の名人たちの演奏に刺激されて猛練習に励む。しかし少しやり過ぎの展開が不満だった。それでも若い才能の勢いは感得できた。久しぶりにジャズを聴いてみようと思わせられたのは作品のおかげ。

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