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2015年1月13日 (火)

如是我聞から如是我問へ

 釈迦の弟子たちは釈迦の死後、師がこう言ったという「如是我聞」という記録を残している。それは後世に様々に解釈されインドや中国、日本で新たな思想・宗教運動として展開された。それは時に現在でいう原理主義の如きものとなる。昨今のイスラム国のテロも淵源はそこにあるように思う。歴史を振り返ればキリスト教国側がイスラム教の原理主義的という保留はつくにしてもテロ行為を批判する資格があるとも思われない。宗教的信条というのはそういうものである。それは歴史を辿れば理解できる。強いて言えばそれは仏教哲学で言う人間という生き物の「業」である。それを如何に乗り越えるか、あるいは乗り越えられるか、という問いが立てられるだろう。仏教徒たちが如是我聞と語った事から如是我問と立場を異をにして過去から未来の可能性を探り実践しなければならない。

 それはハイデガーが思索しぬいた存在論を超える領域として思索、実践することである。同様にそれは西洋哲学の範疇で言えば「存在論」と「認識論」を超える領域を越えるということである。それが果たして可能かどうか。その問いがこの惑星で生息する人間という生き物の究極の問いなのではないか。

 

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